[町 娘] | きゃあああああっっっ!! |
俺の言葉を遮るかのように、絹を引き裂いたような女の叫び声が聞こえる。 |
キクゴローと一緒に声のした方へと顔を向けるが、ここからではその姿は確認出来ない。 |
見えるほど近くでも無いがそれほど遠くも無い、そんな感じの距離感だった。 |
[天城颯馬] | ……ただごとじゃなさそうな叫び声だったな |
[キクゴロー] | うん、そうだね。でも今ぐらい大きな声だったら、すぐに役人も来るんじゃないかな |
確かにキクゴローの言う通り、すぐに役人が来るだろうとは思い湯飲みに手を伸ばすが、聞き逃せない一言が聞こえて来る。 |
[町 娘] | か、景虎様! 危ないですからお逃げになってください!! |
その声を聞いて、隣で座っているキクゴローと目が合う。どちらからとも無く頷くと急いで席を立ち上がった。 |
まさかこんな早くに、かの長尾景虎を目に出来る機会が巡って来るとは。 |
揉め事をどんな風に仲裁するのかの手並みも見てみたかったので、まさにうってつけの状況だった。 |
[天城颯馬] | キクゴロー、行くぞ! |
[キクゴロー] | うん、了解! |
[天城颯馬] | ご馳走様! 御代はここに置いときます! |
茶屋の店の奥に向かってそう叫ぶと、御代を置いて声の聞こえた方へと駆け出した。 |
[天城颯馬] | くっ……どっちだ!? |
[キクゴロー] | 颯馬、こっち! |
耳をぴこぴことさせるキクゴローの後に続いて走って行く。 |
現場を目指して進むにつれて野次馬の人数が増えて行くので方向的には間違いない。 |
[町 娘] | きゃああっ!! |
[キクゴロー] | 颯馬、近いよ! きっとあの角を曲がったところ! |
[天城颯馬] | 分かった! |
キクゴローに先導されるまま、走り込んだままの勢いで角を曲がった、その時――、 |
[???] | 危ない! 避けてくれ! |
凛とした声がはっきりと俺の耳に届いた。 |
[天城颯馬] | 今の声って―― |
その声に釣られて顔を向けた俺の眼に映ったのは、俺の倍近くはあろうかという大男の飛んでくる背中だった。 |
[天城颯馬] | ……え? |
[天城颯馬] | ごぼあっ!? |
言葉を発する間もなく、身動きが取れないほど見事にその背中の下敷きにされる。 |
すると意識がぐらっと揺らいで、段々と視界が黒く塗り潰されて行く。 |
[天城颯馬] | な、何が……どうなって…… |
訳も分からずに遠くなる意識の中で聞こえたのは―― |
[キクゴロー] | あーあ。颯馬、格好悪いなぁ…… |
という、他人事な猫の声だった。 |
[天城颯馬] | ん……んん……? |
ぼやけた目を開けると、見知らぬ天井が視界に入って来る。 |
どうやら俺はどこかの部屋で寝かされているらしい。 |
身体に少しずつ力が戻って来るに連れて、頭も少しずつ回り始める。 |
[天城颯馬] | 痛っ……ここは……どこだ……? |
ズキズキと痛む頭を押さえながら、何とか上半身を起こして部屋の中を見回す。 |
しかしやはり見覚えの無い部屋で、どこかの宿にしてはずいぶんと上等な造りの―― |
[???] | 良かった……目が覚めたみたいだな |
後ろから聞こえた、鈴の鳴るような穏やかで優しい声に思考を遮られて身体を振り返らせる。 |
[天城颯馬] | ―――― |
長い黒蜜のように艶のある漆黒の髪、積もりたての雪を思わせるような白い肌。 |
まるで宝石のような大きな蒼白の瞳を細めて、口元には上品な微笑みを湛えている女の子。 |
上等な青い着物で身を包み、その上に着込んだ着物に似つかわしくない無骨な甲冑の腰元には二本の刀が差されていた。 |
上品な佇まいからは、並の者では無いことを容易く感じ取ることが出来て、思わずその女の子に意識を奪われてしまう。 |
[???] | 申し訳ない、私の配慮不足でつまらない諍いにお前を巻き込んでしまった |
[???] | 気を失うほどに強く頭を打っているのだ。無理はしなくていいからゆっくりと休んでくれ |
[天城颯馬] | あ………… |
[???] | ……本当に大丈夫か? |
少女のあまりの美しさに言葉を失っていた俺は、その大きな瞳で顔を覗き込まれてようやく我に返る。 |
[天城颯馬] | だ、大丈夫です! すみません! |
その可憐な少女に顔を近づけられて、思わず反射的に身体を引き離す。 |
[???] | そうか、大丈夫なら良いのだが…… |
[???] | まさか暴漢を投げ飛ばした先に、誰かが飛び出して来るとは思わなかったのだ。許してくれ |
[天城颯馬] | 暴漢を投げ飛ばした先にって…… |
俺は少し混乱気味の頭を働かせて何があったのか、改めて思考を巡らせる。 |
確か俺は女の人の悲鳴を聞いて、長尾景虎を見るためにその現場に向かって行ったら、急に大男が飛んで来て――。 |
[天城颯馬] | あ……あの時に聞こえた『危ない!』というのは……もしかして、あなたが……? |
[???] | そうだ。咄嗟に声を掛けたのだが間に合わなかった。本当に私の配慮不足だった、すまない |
[???] | 投げ飛ばさずに、その場に打ち伏せていればこんなことにはならなかったのだが…… |
そう言いながら、俺に向かって再度丁寧に頭を下げる。 |
あの時に聞こえた声と目の前の女の子の声があまりに違っていて、本当に同一人物なのかと首を傾げてしまう。 |
それに……こんな華奢な女の子が、俺の倍はあろうかという男を投げ飛ばしたっていうのはにわかに信じがたかった。 |
[???] | 何をそんなに驚いているんだ? |
[天城颯馬] | あ、いえ、何でもありません |
でも、この真っ直ぐな眼が嘘をついているようには到底思えない。それにここで俺に嘘を吐く意味など何もないだろう。 |
……人は見かけによらないって本当なんだな。 |
何と無く誤魔化すために痒くもない頬を掻くと、自分の右手に包帯が巻いてあるのが目に入った。 |
[???] | あ、その包帯は下敷きになった拍子に少し擦り剥かせてしまったようでな |
[???] | お前が気を失っている間に良く効く薬草で手当てをしておいたから、一晩はそのままにしておけば明日には治っているはずだ |
[天城颯馬] | あ……何から何まですみません |
[???] | いや、これも自分の蒔いた種だからな。気にするな |
よくよく見てみると、丁寧な手当てがされていてこの子の真面目さが伝わってくるようだった。 |
[天城颯馬] | あ、すみません。そう言えばお名前を伺っておりませんでした |
[???] | そう言えばそうだったな、すまぬ |
[天城颯馬] | 私は天城颯馬と申します。あなたのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか? |
[???] | 私は長尾景虎だ |
[天城颯馬] | 長尾景虎って……え、あなたが……!? |
その発言を聞いて、さっきこの少女を見た時に輪をかけて驚いてしまう。 |
俺が聞き及んでいた長尾景虎の噂話とは相当な差が開いていた。 |
[長尾景虎] | 何だ、私が長尾景虎だということがそんなに意外なのか? |
[天城颯馬] | あ……いえ、意外と言いますか……その……こんなに可愛いらしい女性だとは思わなかったもので…… |
景虎様の曇りの無い瞳で見つめられて、思わず包み隠さずに素直な言葉が口から零れてしまう。 |
[天城颯馬] | あ! す、すみません……仮にも一国の城主に向かって……!! |
[長尾景虎] | 確かに私に向かってそのようなことを言う者などおらぬが…… |
[長尾景虎] | くす、別に悪い気はしておらぬ、心配するな |
首を斬られてもおかしくない俺の失言を小さく笑って許してくれる景虎様。 |
何だかそのはにかんだ笑顔が、一国の武将だとは思えないほど可愛らしく見えてしまう。 |
[長尾景虎] | ちなみに、私の風評とはどのようなものなのだ? 少し興味がある。聞かせてくれ |
[天城颯馬] | は、ですが…… |
[長尾景虎] | 良く言われていないのは分かっている。だからこそ興味があるのだ |
[長尾景虎] | それに、先ほどの失言も許したのだ。その代わりだと言えば良いか? |
例え冗談だとしてもそこを突かれるとつらいものがある……。 |
俺は観念して自分の知っていることを話すことにした。 |
[天城颯馬] | 『長尾景虎』は毘沙門天の生まれ変わりの『軍神』で、元服したての栃尾(とちお)城の戦いで敵を手玉に取った猛将だと聞き及んでおりました |
[天城颯馬] | 越後の国の守護代で、民に慕われる義の御仁とも…… |
[天城颯馬] | そして今、空席になった上杉家の名跡に名乗りを上げ、春日山を拠点として長尾家の旗を掲げたと耳にしました |
そこまで話すと、景虎様から笑みが消えて代わりに鋭い視線が向けられる。 |
[長尾景虎] | ……何故そこまで詳しく知っている? |
[長尾景虎] | お前が今口にしたように、今現在この越後は上杉家の家督を巡って争いが起きている |
[長尾景虎] | お前のように民に扮した間者が紛れ込んでもおかしくないという現状な訳だが…… |
景虎様の右手が腰の刀の柄に添えられる。 |
[天城颯馬] | ち、違います! 私は決して間者などではございません! |
[天城颯馬] | 私は軍師として自分が仕えるべき主を探して各地を旅していて、たまたまここに来ていただけです! |
[天城颯馬] | ですので、景虎様のことや諸国の事情に関して少し聞き及んでいるだけであって、どこかの間者だということは決してございません! |
[長尾景虎] | その話、本当か? お前が間者ではないという証拠がどこにある? |
目に鋭い視線を帯びたまま、刀の柄から手を離さずに俺を見据える。 |
[天城颯馬] | ……証拠などはございません |
[天城颯馬] | ですが、私自身の軍師の誇りに誓って、私は間者などでは無いと誓います |
俺は自分の有りっ丈の誠意を込めて景虎様の目を見返す。 |
[長尾景虎] | ………… |
[天城颯馬] | ………… |
[長尾景虎] | …………く、あははっ! |
目を逸らして顔を俯かせると、景虎様が急に笑い声を漏らした。 |
一体何が起きたのか分からずに俺が首を傾げると、口元を上品に隠して先ほどまでのことが嘘のように笑顔を浮かべる。 |
それはまるで戦国武将というよりも、歳相応の女の子のような笑顔。 |
[長尾景虎] | すまぬ、お前を疑ったのはほんの戯れだ |
[長尾景虎] | まさかそんな返し方をしてくるとは思わなかったので、思わず笑ってしまった。許せ |
[天城颯馬] | は、はぁ……戯れ、ですか…… |
[長尾景虎] | お前の素性はお前の連れから聞いている。知猫とはまた珍しい供を連れているのだな |
[天城颯馬] | あ……! |
そう言われて、ようやくキクゴローが居ないことに気がついて部屋の中を見回す。 |
[長尾景虎] | 心配要らぬ。キクゴローもずっとお前に付いていたのだが、腹が減ったと言うので今頃台所で何かを食べている頃だ |
[長尾景虎] | 気を失ったお前を連れてここまで来る道中の間に、お前のことや今までのことを色々と教えてくれたぞ |
俺を見ながら何だか楽しそうに小さく笑う景虎様。 |
俺のこととか今までのことって……何か余計なこと言ってないだろうな……。 |
[長尾景虎] | お前がなかなか主を決めないせいで、根無し草の旅に疲れたと言っておったぞ? |
あの野郎……余計なこと言いやがって……。後でヒゲ引っ張って左右の肉球を連打してやる。 |
[長尾景虎] | どうかしたのか? |
[天城颯馬] | ……いえ、何でもありません |
まぁ……ここで何かを聞いて藪蛇になっても困るので、とりあえず何を聞いたのかは黙っておくことにしよう。 |
布団から身体を起こすと、立ち上がって乱れた襟元と裾を直す。 |