俺にとって南蛮新教と言うものは、過去の嫌な記憶を思い起こさせる物でしかない。 |
宗麟様に用事を頼まれる度に、俺はその嫌な記憶を思い出しているのだ。 |
精神衛生上、これほど悪い事はない。 |
もしかしたらわざとやっているんじゃないのかと疑いたくもなるが。 |
[キクゴロー] | えー? そんなことする人じゃないと思うよ? |
以前キクゴローにそれを話したところ、こいつはそう言った。 |
確かにそれは俺もそう思う。宗麟様はそんな婉曲な嫌がらせが出来る類の人間ではない。 |
しかし、わざとじゃなければ赦せるといった物でも無い。 |
[キクゴロー] | とにかく、道雪の前ではそんな態度出しちゃ駄目だからね? あの子は関係無いんだから |
[天城颯馬] | そんなことは勿論分かってるさ。俺だってもう大人だぞ? |
[キクゴロー] | そうかなぁ? 大人は自分の機嫌が悪いからって床を踏みつけたりしないと思うけどなー |
[天城颯馬] | だから、それは悪かったって言ってるじゃないか |
[キクゴロー] | 別に僕は良いんだけどね、僕は |
そんなことを話しつつ廊下を歩いていく。 |
俺たちは今、ある人間から呼び出しを受けていた。 |
彼女もこの国の高い地位に就いている人間ではあるが、だからと言って彼女と宗麟様の行いとは別物だ。 |
俺の宗麟様に対するこの苛立ちを、彼女にぶつけるのは筋違いというもの。キクゴローの言うとおり気をつけないとな。 |
廊下の角を曲がり、一室の前で立ち止まる。 |
[天城颯馬] | 天城颯馬、お呼び出しにより参上致しました |
[キクゴロー] | 僕もいるよ |
外から声をかけると、中から若い女性の可憐な声が聞こえてくる。 |
彼女の異名のみを知る人間が聞いたら、自分の耳を疑うだろう。 |
[???] | これは天城殿、キクゴロー様も……お待ちしておりました。中へ入ってください |
彼女の返事を聞いてから襖を開け、部屋の中に入る。 |
[天城颯馬] | 失礼致します |
[天城颯馬] | 立花殿、長らくの出兵お疲れ様でした。無事のご帰還を嬉しく思います |
[立花道雪] | 天城殿もご健勝な様子。久しぶりにお会い出来て私も嬉しいですよ |
[キクゴロー] | やぁ道雪。元気そうで良かった |
[立花道雪] | キクゴロー様もお元気そうで何よりです |
[立花道雪] | 長らく戦に出ており、ようやく帰って来られたのでまずはご挨拶をと思ったものですから |
[天城颯馬] | 俺のような雑用係にわざわざそんな……光栄です |
彼女こそ、俺の仕える大友家きっての名将、立花道雪その人だ。 |
見て分かるとおり、下半身に自由が利かない身ながらも常に陣の先頭に立ち兵を率いる勇猛さ。 |
そして双輪を手足のように操り、まるで舞でも踊っているかのように敵陣を切り裂いていくその圧倒的な戦闘力。 |
この二つから彼女は『鬼道雪』とも呼び称えられている。 |
この呼び名と実際の彼女の見た目の差から、初めてあった人間はとても彼女こそが『鬼道雪』であるとは思わないだろう。 |
その見た目とは裏腹に、彼女は自分にも他人にも厳しく、規律を乱すことを許さない。 |
しかし、大変な部下想いで知られる人物でもあり、武将としても、また女性としても……。 |
彼女に憧れを覚えている者は両手の指ではとても数え切れないだろう。 |
[立花道雪] | それで、天城殿。私がいない間に何か変わったことはありませんでしたか? |
[天城颯馬] | は。そうですね……雑用係としての経験を積ませていただいております |
[立花道雪] | 天城殿。雑用係だなんて……貴方はわが国の立派な軍師です。そのような言い方はしてはいけません |
[天城颯馬] | あ、はい……申し訳ありません |
[立花道雪] | 分かってくだされば良いのです。それに、そんなにかしこまらないでよろしいのですよ? 貴方と私は旧知の仲ではありませぬか |
[天城颯馬] | いえ、お言葉は嬉しいのですが……そういう訳には…… |
立花殿はこうして、忙しい時間を割いてわざわざ俺に声をかけてくれる事が良くある。 |
俺としては光栄だし、兵達の憧れの的である彼女がわざわざ俺に……と考えると純粋に嬉しい。 |
しかし、今の俺は軍師という名の雑用係でしかない。 |
そんな俺が何故、この国きっての名将とこんなに親しい間柄なのか、それは俺が何故、今軍師としてここにいるかという事と関わりがある。 |
彼女は俺が一時期、軍師としての教えを受けていた人物を慕っていて、そこで何度となく会っていたのだ。 |
俺の軍師としての師匠、角隈石宗殿は、俺の育ての親でもある。 |
あの日、両親を失い、宗麟様の下で腐っていた俺を引き取ってくれたのが石宗殿だ。 |
石宗殿は、南蛮新教排斥派の頭目だった方だ。 |
普通に考えれば俺の敵とも言える人物ではあるが、実際はそうではない。 |
俺の家族を襲ったのは、南蛮新教排斥派の中でも強硬派と呼ばれる一部の奴ら。 |
そいつらは石宗殿の命を無視して、彼の知らないところで暴走していたのだ。 |
初めはそれでも石宗殿を赦せなかったが、彼の下で過ごし、彼の人となりを知るうちに、そんな考えは吹き飛んでいった。 |
俺を宗麟様の下から引き取る時に、石宗殿は多少無理をしてまで俺を引き取ってくれたらしい。そこまでしたのは、俺への罪悪感だったんだろう。 |
自分の意思とは違うとは言え、南蛮新教排斥派が俺の両親、そして一族を殺したことに違いはない。 |
石宗殿は厳しいところもあったが、心根の優しい人物だった。 |
俺は石宗殿の下で軍略を学んだ。 |
ようやく、そろそろ一人前と呼べるなと言われてすぐに、石宗殿は亡くなってしまった。 |
戦で人が死ぬのは仕方が無いことだ。 |
軍師としての教えを受けている以上、俺もそんなことは分かっている。 |
それでも、納得して割り切れるほど、俺はまだ戦の経験を重ねてはいなかった。 |
これからどうして行くかと思案していると、城から使いの者が来た。 |
石宗殿は大友家の軍師として働いていたので、彼が亡くなってしまった事により出来た穴を、その弟子である俺に埋めて欲しい、と。 |
明らかに宗麟様は、元々自分が親代わりとして育てようとしていた俺に対するこだわりがあるのだとは分かった。 |
しかし、それでも軍師としてと言われては断る訳にはいかない。 |
それは石宗殿の教えに反してしまうからだ。 |
それに、彼女が純粋な善意から申し出てくれていたのも分かったので、俺はキクゴローと共にこの城へと戻って来たと言う訳だ。 |
[立花道雪] | ……殿、天城殿。また何か考え事ですか? |
[天城颯馬] | あ、これは失礼しました! |
考え事に夢中で、どうやら立花殿の言葉を聞き漏らしていたらしい。 |
[立花道雪] | いえ、良いのです。それよりも折角こうして久しぶりに会えたのです。楽しく語らう事は出来ませぬか? |
[天城颯馬] | あ、は、はい! 申し訳ございません! |
[立花道雪] | ふふ。天城殿は本当に…… |
[天城颯馬] | はっ? 何か…… |
[立花道雪] | いえ、何でもありません |
[立花道雪] | 貴方も昔はこんなに小さかったのに、また随分と大きくなったものですね |
立花殿は俺を見上げながら、自分の手を俺の腰の辺りに当てた。 |
いくらなんでも、俺が初めて立花殿とお会いした時はもう少し大きかったはずだぞ。 |
[天城颯馬] | そんなに小さくはなかったですよ。それに、昔の事を言われるのは少し、恥ずかしいです |
[立花道雪] | ふふ、少なくとも私よりも背が小さかったではありませんか。それが今ではもう、私よりも大きくなってしまって…… |
[天城颯馬] | ですから……お止めください |
立花殿は楽しそうに笑った。 |
彼女がこんな顔で笑うところを知っている人間が、この城内にどれだけいるんだろうかと考え、そんなに多くないはずだと思い直す。 |
今ここで俺と相対しているのは、軍を指揮している名将、雷神とも呼ばれる立花道雪では無く、俺を昔から知っている、立花殿なのだから。 |
そう考えると、俺は少し幸せな気持ちになった。 |
[立花道雪] | それに、最近はめっきり他人行儀になってしまって…… |
[天城颯馬] | 昔の自分が物を知らなかっただけですよ。今は雑用係とは言え、昔よりは物を知っているつもりです |
石宗殿の下に引き取られた初めのうちは、確かに俺はただの礼儀知らずな子供だったと思う。その時と今を比べられるのはさすがに苦しい。 |
[立花道雪] | はぁ……確かに、自分をこの城のただの雑用係であると捉えていては、将である私とまともな会話など出来ようはずがありませんね |
[立花道雪] | 天城颯馬殿! |
突然、立花殿は声高らかに俺の名を呼んだ。さすがに『鬼道雪』と謳われるだけあり、その声を聞いただけで、自然と俺の背筋は真っ直ぐに伸びた。 |
[立花道雪] | 宗麟様は今後、貴方に大友家の正式な軍師としての仕事を任せるおつもりのようです |
[立花道雪] | つまり戦場にて采配を振るってもらうことにもなるということ、それがどういう事かお分かりになりますか? |
[天城颯馬] | はい……兵の命にかかわる事になる、と言うことですね? |
[立花道雪] | それだけではありません。貴方自身の命にも、そして私の命にも、です |
[天城颯馬] | ……何故、自分を? |
[立花道雪] | ……宗麟様のご意思に、何か間違いがあるとでも言うのですか? |
[天城颯馬] | いえ……決してそのようなことは…… |
[立花道雪] | では、心しておいて下さい |
ついにこの時が来たのか……。 |
任される雑用の内容に苛々しているなんていうのは、考えれば大した事ではなかった。 |
名ばかりの軍師として、雑用を任されている方が、随分と気は楽だっただろう。 |
軍師として戦に出るという事は、自分の命、自軍の命、自国の命、そして敵方の命のその全てに関わるという事だ。 |
いつかこの日が来るとは思っていたが……思っていたよりも随分早かったな。 |
[天城颯馬] | 分かりました |
[立花道雪] | えぇ。貴方のその顔を見れば、真剣に受け止めて下さったのは明白です |
[立花道雪] | ふふ。正式に軍師として采配を振るう際には、もう少し、私と対等に話をしてくれますか? |
俺はなんて幸せ者なんだろう。 |
この方に。立花殿にそんな言葉をかけて貰える奴なんて……この国中を探してもそんなにはいないだろうな。 |
でも。 |
[天城颯馬] | ぜ、善処はします |
そう簡単には行かないだろうな……。 |
[立花道雪] | ふぅ……そこもまた天城殿の良さなのかも知れませんね |
[立花道雪] | それでは、天城殿、私はこれからキクゴロー様と久しぶりに長い話がしたいので、席を外していただけますか? |
[キクゴロー] | ようやく僕の出番だね。そう言う事だから、颯馬は部屋に帰ってると良いよ |
……この猫。 |
キクゴローのせいでは無いけど、今物凄く苛々したぞ。 |
[立花道雪] | ごめんなさい。別に邪険にしているつもりは無いのですけど…… |
[天城颯馬] | あ、いえ。気になさらないで下さい |
[キクゴロー] | うん。道雪は気にしないで良いんだって |
……この猫。 |
[天城颯馬] | ……それでは失礼します |
戻ってきたら文句の一つでも言ってやろうと思いながら、俺は引かれる後ろ髪を断ち切って、後ろ手に襖を閉めた。 |
キクゴローの奴、中々戻って来ないな。 |
立花殿の部屋でキクゴローと別れてから、随分と時間が経っていた。 |
自室で一人ゆっくりとしてはみたものの、あまりに帰ってくるのが遅いので部屋を後にしたが……。 |
だからと言って、また立花殿の下へお邪魔する訳にもいかず、気分を変えてこうして城内をうろうろする事にした。 |
二人きり、いや、一人と一匹での会話と言うものの内容も気になったが何より、俺自身久々に会えた立花殿と、もう少し会話を楽しみたかった。 |
……俺自身がその機会を上手く使えなかっただけではあるが。 |
と、中庭にいる一人の女性の姿が目に映った。 |
彼女はまだ俺には気がついていない。と言うのも、彼女は薙刀を振り回しているところだったからだ。 |
訓練……だろうか。彼女も立花殿と共に戦から戻って来たばかりのはずなのに……精が出るな。 |
そのまましばし観察を続けていると、気配に気がついたのか、たまたま目の端に移っただけか、彼女がこちらを向いた。 |
[天城颯馬] | 紹運殿、精が出ますね |
[高橋紹運] | 颯馬殿か |
答えて一礼する彼女の名は高橋紹運。立花殿と共に大友家の双璧と呼ばれる武将だ。 |
仁と義を愛し、立花殿と同じく兵に慕われている彼女は、立花殿の事を義姉様と呼び慕っている。 |
[高橋紹運] | 義姉様のところには顔を出されたのか? |
[天城颯馬] | はい、先ほど。キクゴローと二人で話がしたいと申されるので俺はこうして城内を見回っているところです |
[高橋紹運] | そうか。では、義姉様よりもう聞き及んでいる事と思うが、颯馬殿には今後、正式な軍師としての役割が与えられる事になる |
[天城颯馬] | はい、伺いました |
[高橋紹運] | 義姉様のことだから貴方にもしっかりと言い含めてはあるとは思うが、軍師になるということは…… |
[天城颯馬] | 兵の命と自分の命と立花殿の命を握っている、ですか? |
[高橋紹運] | ……分かっているのなら良いのだ。軍師の役割は大きい |
[高橋紹運] | 重圧をかける訳では決して無いが、そこだけは忘れないで置いてくれ |
[高橋紹運] | 私も義姉様も愚かでは無い。貴方が間違った判断をした時にはそれに歯向かう事もあるだろう |
[高橋紹運] | しかし、規律を重んじる義姉様は余程の事が無い限りそれを良しとしないかも知れない…… |
[高橋紹運] | だから頼む。貴方の采配が私や義姉様、それからこの国の為に戦っている兵達全ての命を握っている事を忘れないでくれ |
紹運殿はそう言うと、深々と頭を下げた。 |
彼女も言っていた通り、別に俺に重圧をかけるつもりではないのだろう。しかし、それだけ軍師と言う役割の責任は重いのだ。 |
その上で、彼女も立花殿も、俺を軍師として見てくれると言う事、その信頼に対して、俺は応えなければいけないな。 |
出来るか出来ないかではない。 |
石宗殿の下で学んだ全ての事を持って、俺は成し遂げなければいけないんだ。 |
がんばろう。 |
[天城颯馬] | 分かりました。俺の全身全霊を込めて、最高の采配を振れるように努力します |
[天城颯馬] | そしてもし、俺の采配が間違っていた時は……容赦無く、俺を斬って下さい |
[高橋紹運] | ……なんと? |
[天城颯馬] | それくらいの気持ちでやらなければ、命をかけて戦う兵や、紹運殿、そして立花殿に顔向けが出来ませんから |
俺の言葉に、紹運殿は驚いた顔を見せたが、すぐに笑みを浮かべた。 |
[高橋紹運] | 宗麟様の目にも、義姉様の目にも、狂いは無かったようだな |
[高橋紹運] | 私も、貴方を信頼している。よろしく頼む |
[天城颯馬] | はい |
紹運殿も、戦場では戦神などと呼ばれるが……笑うとこんなにも可愛いんだな。 |
俺に向けられたこの笑顔を曇らせない為にも、ともかく自分の出来る限りの事をやろう。 |