島津五姉弟の長男にして末っ子。
弟妹中最年少ながら、男は自分だけだという自覚から、姉たちを守ろうと考えている頼もしい男の子。
心がけも良く、鍛錬も怠らず、驕らず、常に自らを律しようとする精神は大器を予感させるが、まだまだ未熟者で、その未熟さが時に口調に表れる。
島津四兄弟の末弟、家久の嫡男として生まれ、天正12年(1584年)『沖田畷の戦い』で初陣を飾る。家久の死後、家督を継ぎ、義弘を慕って育った。武将としては知勇ともに父譲りの才覚を示した。
『関ヶ原の戦い』では行きがかり上の理由もあり義弘と共に西軍に属したが、事前の軍議で夜襲を献策しこれを島左近に嘲笑され、三成も受け入れなかった。このことから、本戦では島津が動かず、攻撃命令を伝えに来た伝令の言葉も無視したとされる。西軍の敗色濃厚となったところで玉砕を覚悟した義弘を豊久は説得し、敵中強行突破を献策、義弘を守って井伊直政や本多忠勝と奮戦、味方の退却を見届けつつ憤死した。
井伊直政はこの時の怪我が元で、2年後に死亡している。