三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主。関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601年)、従五位下に叙任、日向守を名乗った。日向守は明智光秀が名乗っていたため、家康は光秀の武功にあやかれと、光秀所用の熊毛の朱槍を授ける。以後、その勇猛ぶりから、「鬼日向」と渾名された。 領主の嫡男でありながら、前半生は渡り浪人として数多くの主君に仕えては出奔することを繰り返し、後半生は名藩主として、備後福山を治めた。