三好長慶の嫡男として生まれる。三好長慶が剣豪将軍・足利義輝と細川晴元と和睦する際に人質として近江国に送られた後、足利義輝より「義」の字を賜って三好義長と名のり、19歳で将軍御供衆となって足利義輝の側近として仕えた。父・長慶に劣らぬ器量の持ち主であったとされ、近江の六角義賢が京都に攻め込んできたときは、松永久秀と強力して撃破し、河内国の畠山高政との戦いに大勝する等の活躍を見せている。また、豊かな教養人でもあり、将軍・足利義輝とは年齢が近く教養も武勇もあったためか、厚い親交があったと言われている。芥川山城主となった翌年には相伴衆に取り立てられて名を三好義興に改め、三好長慶からも周囲からも将来を嘱望されていたが、永禄6年(1563年)に突然の病に襲われ、22歳の若さで急死。死因は黄疸の説と主家を奪い取らんとする松永久秀による毒殺説があるが、真偽は未だ定かではない。