伊達家家臣のひとり。
伊達家譜代の一族、鬼庭家の後継者で、輝宗に見込まれて早くから政宗の側で成実や景綱と供に学び、成長してきた。
優しくおおらかで出しゃばらない性格のため目立たない存在だが、常に一歩退いて政宗達の背中を守っている頼りになる人物。
人取橋の合戦で奮闘の果て死亡した鬼庭良直の嫡男。政宗に仕え、その生涯を見届けるようにして亡くなった、伊達三傑の一人。
『智の景綱』『武の成実』と並び政宗を支えた重臣で、行政能力面で大きく貢献している。朝鮮の役では補給を担当し、諸大名が補給路を確保できず、兵糧不足で多くの兵を失った中で、伊達軍にひとりの餓死者も出さなかった。
その有能さから秀吉にも気に入られ、誘いをかけられたが断ったとされる。鬼庭家が長命の家系と知った秀吉に秘訣を尋ねられた綱元は正直にそれを明かし、以後、秀吉が米粉を湯に溶いたものを『石見湯』と名付けて服用したという話は有名。
寛永17年(1640年)死去、享年92。亡くなった5月24日は、政宗の四回忌にあたる日であった。