信濃の真田幸隆の三男として生まれ、幼少時は武田家に人質として差し出されていた。信玄はその才覚を見抜いて寵愛したと伝えられる。後、長篠の戦いで二人の兄が死に真田家の家督を継承する。 北条・徳川・上杉・武田という大名に囲まれた真田家を守るためにしたたかに立ち回り、武田家が滅んだ1582年には5回も主君を変えている。その諸将を手玉にとるかのような老獪さから秀吉に『表裏比興の者』と称された。 関ヶ原の合戦では西軍につき、徳川秀忠の四万近い軍勢を上田城にわずか二千の兵で籠城して迎え撃ち、これを足止めして西軍に貢献した。このため、秀忠は関ヶ原の合戦に遅参したと言われている。 西軍敗退に伴い高野山近くに蟄居を命じられ、その地で病没した。享年65。