14歳の頃から織田信長に仕え、信長と実弟・信行の争いである稲生の戦いなどで戦功を上げる。しかし、永禄2年(1559年)信長の赤母衣衆であった頃に同朋衆を殺害し、2年間出仕を止められた。永禄4年(1561年)の美濃の戦いの功によって許され、美濃の斉藤、近江の浅井、越前の朝倉などの諸氏との戦に参加し、戦功をあげる。槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられた。 その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦。信長より能登23万石を拝領し大名となる。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。 豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀、越中を与えられ加賀百万石の礎を築く。