孫子の一節『徐かなること林の如く』を武田軍で体現する家臣。
目立たない存在ながら、武田家に忠節を尽くしつつ、他者と比べた時の自らの影の薄さを少し憂いている。
合戦においては殿を務めることが多く、最後まで戦場に残って武田軍の軍勢を底支えする武将で、その働きには信玄も一目置いている。
武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田四天王の一人として数えられる。
一生の殆どを『春日虎綱』と名乗っていたが『高坂昌信』という呼称の方が著名。この理由は、晩年出家した際の法号が伝わっていないことから、虎綱の法号が『昌信』であって、それが後世に伝わっているのではないかと言われている。
武勇に秀でる武田諸将の中において、治世面に高い手腕を有すると共に、非常に慎重な采配と見事な退却戦指揮能力で『逃げ弾正』の異名を取った。
三方ヶ原の戦いでは大勝に急いて追撃を主張する家臣団の中にあって、状況を冷静に分析して深追いは避けるよう進言するなど、抑え役の面を持っている。
このため、家臣団の中では随一の智将と評されている。
細かい気配りの出来る仁者であり、川中島では敵味方問わず手厚く葬り、上杉方への死者の引渡しも礼を尽くして協力したと伝わる。