秀吉に見出され、武将としてその側で働くようになった人物。
融通の利かない固い性格と、遠慮のない物言いをするようなところがあり、人に誤解されやすい。
秀吉に対しては強い憧憬を抱いており、秀吉のために命をかけて尽くそうと懸命に日々を送っている。
永禄3年、織田信長が桶狭間で今川義元を破った年に産まれ、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年頃から秀吉の小姓として仕え、その覇業を助けると共に、その政権の中枢で活躍した。
いわゆる五奉行の一人。同じ文治派の大谷吉継との友誼は深く、直江兼続とも仲が良かったと言われ、人格は高潔ながら行き過ぎて規律に厳しかったことで人心を集めることはできなかった。
秀吉の死後は武断派との対立が表面化し、襲撃されるがこれを逃れ、一時隠遁。後に兵を挙げて関ヶ原の戦いで家康との決戦に望む。
吉継の進言に従って西軍の陣容を整え、関ヶ原を合戦の地と定めて周到に備えて東軍を迎えたが、小早川秀秋らの裏切りで敗戦。斬首される。享年41。