豊臣秀吉の三男。秀吉57歳の時の子で母は側室の茶々(淀殿)。僅か3歳で無くなった兄には「棄(すて)」と名づけていたことから幼名は「拾(ひろい)」となった。誕生した2ヶ月後には、豊臣秀次の娘と婚約。12歳の時、嫡男が誕生。関ヶ原の戦いに参戦はしていないが、親衛隊である七手組の一部は西軍として加わっている。大坂冬の陣・夏の陣にも出陣はせず、初陣を飾らぬまま23歳で自害。