「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がった。 家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。しかし道三は義龍よりも、その弟である龍重や龍定を偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟たちを殺害し、道三に対して挙兵する。 国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、1万7千の兵を率いる義龍に対し、7千の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わず、義龍軍に敗れ、討ち死にした。