細川藤孝の長男として生まれる。藤孝と共に各地で戦功をあげ、その素質は信長にも認められていた。藤孝の僚友、明智光秀の娘、玉子(後の細川ガラシャ)と結婚。忠興の妻に対する愛情は深く、嫉妬深さ故から行われた逸話が多く残されている。 細川親子は本能寺の変に際しては、光秀から助力を求められるが二人はこれを拒否。藤孝の隠居に伴い家督を相続している。後は秀吉に臣従して転戦、功を重ねて加増され、18万石の大名となる。秀吉の死後、その去就に注目が集まるなか、父と共に東軍に与し、石田三成本隊と激闘を演じた。 短気で非情な武辺者として語られることが多いが『利休七哲』の一人として茶の湯を極め、蹴鞠に興じ、絵にも才を示すなど、文化人としても高い評価を得ていた。また、誠実な人物でもあったらしく、信長へ強い恩義を感じていたことから、信長の死後も長くその菩提を弔い続けたと伝わる。