永禄10年、大友家の重臣・高橋紹運の長男として生まれ、その後男児の無かった立花家の跡継ぎとして道雪の養子になる。 数々の戦で武功を上げ、豊臣秀吉に『東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる』と、その武将としての器量を高く褒め称えられたという。 養子になる際に道雪の娘・誾千代と結婚するのだが、二人の仲はとても悪く、子にも恵まれなかった。道雪の死後二人は別居したといわれている。 島原の乱後、家督を立花忠茂に譲り致仕・剃髪し、寛永19年に江戸柳原の藩邸で死去、享年76。 戒名は大円院殿松陰宗茂大居士。俗名の宗茂が入っているのは、宗茂の名が有名でありすぎるため変えるに変えられずそうなった、との逸話がある。