陸奥、南部家の(正当)当主。
南部家の後継問題で揉めた際、その気は無いのに当主候補として担ぎ上げられ、そんなつもりは無かったのにそのまま当主に祭り上げられてしまった見た目が地味な人。
なまじ才覚があったことが彼の不幸だったのかもしれない。
人を遠ざけるようにして部屋に籠もって静かに日を送りつつ、当主としての仕事をこなす律儀な一面もある。
南部家第26代当主。
甲斐源氏の流れを組む南部家宗家・南部政康の孫であり、政康の子・石川高信の側室の子として生まれた。その後、南部家24代の晴政の嗣子となったのだが、晴政に実子鶴千代が生まれると、後継争いの種になると考え、自らは家臣の一人に過ぎないと田子城へ引いた。
晴政の死後、鶴千代が25代目を継ぎ晴継となったが晴継は直後に暗殺されてしまう(病死説もあり)。九戸政実、八戸政栄が家督争いを始める中、信直は北信愛などに担がれる形でこれに介入。北信愛の働きで南部家当主となるが、後も九戸政実は信直に対立し続けた。
晩年は痛風を患い、慶長4年(1599年)死去。享年54。