安芸の大名、毛利家の末弟。
現当主、隆元の後継者と目されており、姉である隆景から厳しく育てられたが、当人は決して自分を曲げずに育ってしまい、教育の失敗を隆景は悔やんでいる。
覇気に欠けるが全身から育ちの良さは漂っており、人と争うことは嫌いと言って憚らない。
母、元就から『天下を競い争うな』と言われ、その言葉を忠実に体現しようとしているのかもしれない……。
毛利隆元の長男。父の死後、11才で家督を継いで毛利家当主となったが、実権は祖父、元就が握っていた。祖父元就の死後、毛利両川に支えられて毛利家を切り盛りしていく。
この頃は織田信長勢力を広げ、室町幕府が滅亡するなどの戦国時代にあっても動乱期だったが、輝元は人柄がおおらかでおっとりしており、有事に際して対応できる人物ではなかったとされる。それでも両川に支えられて当主の務めを果たそうとした。
秀吉に臣従し領国を守ろうとしたが秀吉が死亡。関ヶ原の戦いに際しては西軍の大将となるがこれには有力血族が反対。彼らが裏で東軍と交渉するなど、毛利生き残りを賭けて様々な動きが有り、それらが関ヶ原の決着に大きな影響を与えたと言われている。
関ヶ原の後、大幅に所領を減らされたが毛利家は存続を許される。後、輝元は嫡男に家督を譲るが実権は手放さず、大阪の役などにも関わるが元和9年(1623)に正式に隠居。寛永2年(1625)に死去した。