越前、朝倉家の当主。
天才肌な人物で、武にも政にも才を示すが、勤勉という言葉からは非常に遠いところに身を置いているため、有り余る才能はもっぱら遊興方面に活用するという困った人物。
なまじ仕事のできる宗滴という有能な家臣がいることも有り、家のことは彼に任せて自由闊達に毎日を伸び伸び楽しく過ごしている。
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、戦国時代の武将。
越前の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
平安時代から続く『名家』であり越前若狭を支配する『朝倉家』の後を継ぎ、一乗谷の城下に京文化の花開いた雅な都市を築いて、華やかな行事を開催した大名。
義景は現在においても暗愚な武将として評価されることが多い。
その理由として、足利義昭が亡命してきたときに上洛すれば天下を取れる絶好の機会であったのに、それをみすみす逃がしたり、また元亀3年(1572年)12月に織田信長が岐阜に撤退したとき、追撃すれば信長を討ち取れる可能性もあったのに、その好機を見過ごしたりしているため。
盟友・浅井家の奮戦も空しく織田信長の軍勢に破れて没落。最期は家臣団の筆頭朝倉景鏡の裏切りによって自害した。