戦史特集第四回
中国打通作戦は日本作戦名「一号作戦」といい、1944年4月から12月まで約8ヵ月の間おこなわれた作戦。作戦の発案者は辻中佐と関係が深い服部中佐であった。作戦の目的としては、
「中国国内の陸路交通手段を使って、南方資源地帯と日本本土を結ぶ」
「中国大陸から発進するB-29の離陸阻止」
「中国軍の戦闘継続意思の低下を狙う」
以上の目的を達するために中国北部(京漢)と中国南部を結ぶ京漢鉄道を確保し、タイからビルマの前線まで到達する約2400kmを約40万の兵力で確保する作戦であった。
補給が現地調達でインパール作戦の二の舞になるという意見もあったが服部中佐の面目上作戦は強行された。京漢から南進する日本軍は前半戦である京漢作戦を成功裏に終える。さらに南進する日本軍は、次に米軍のB-29発進基地を線路伝いに占領確保していった。南進の途中、香港から進軍した部隊と合流した。
結果、作戦は成功したが、実際の兵士達は、コレラや赤痢などの病災、武器や弾薬などの欠乏。弾が尽きての突撃。連日連夜の歩行進軍で病死者や餓死者が溢れていた。
この作戦に参加し、兵数の約8割を病死や自殺者で失った静岡歩兵第34連隊の元兵士たちの証言。
夜も寝ずに歩いていたため、歩きながら眠っていた。
「歩きながら眠る」「眠りながら歩く」だった。
撃つ弾もなくなり、敵がビュンビュン弾を撃ってくる中を、
銃剣突撃して、敵の陣地を奪った。
飲む水がなくなって、その辺の泥水を飲み、
コレラ、赤痢にかかって多くの兵士が病死した。
こんなに苦しいのなら、死んだほうがましと、多くの兵士が自殺した。
死ぬときは誰も「天皇陛下万歳」なんて言いませんよ。
ほとんど「おかあさ~ん」だった。
終戦の知らせを聞いたとき、「ああこれで家へ帰れる」とうれしかった。
多くの兵士を失いながらも一号作戦は成功したが、南方方面でマリアナ諸島を失陥するに至り日本本土爆撃は避けられない状況になっていた。中国方面も制空権を失した状態では補給路の確保は難しかった。
この状況のなかで後の対米戦と対ソ戦の準備を迫られた中国方面の兵士たちは慌しさのなか終戦を迎えるのであった。