第一次世界大戦後、多くの植民地を失い、巨額の賠償金の支払いに苦しんでいたドイツに追い討ちをかけるように1929年にアメリカから端を発した世界大恐慌が襲いかかった。
ドイツでは凄まじい物資不足に陥り、ドイツ政府は購買力を高めるために大量の紙幣を刷った結果、史上最悪のハイパーインフレに陥った。 ドイツ国民は、この惨状の原因は戦勝国が押し付けたヴェルサイユ条約で巨額の賠償金を押し付けられた事によるものとして戦勝国を恨み、それがナチズムを生み出す事となったのである。
1933年、ヴェルサイユ条約の打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任して軍備増強と公共事業により総需要を喚起して世界恐慌を乗り切ると、自身は総統を名乗り国際連盟を脱退して、1935年には再軍備を宣言して、翌年にはラインラント地方に軍隊を進駐させてた。
それに呼応するかのようにムッソリーニが独裁していたイタリアもエチオピアに侵攻し、ドイツとイタリアは領地拡大に邁進して行った。
日本の満州国建国と国際連盟からの脱退
一方、アジアでは1931年9月18日に関東軍が起こした満州事変以降、日本が満州全土を制圧し「満州国」を建国。これを不服とする中国が国際連盟に提訴した。
国際連盟総会の場で日本は、満州からの撤退と主権は日本にあらずとした決定に不服として退席。国際連盟を脱退した。
日本と中国の争いが激化
脱退から2年後の1937年、竜王廟付近で演習中の日本軍に対して中国側から複数の発砲があったとして、これに支那駐屯歩兵第1連隊が応戦することで始まった『盧溝橋事件』は、中華民国との長期的、かつ大規模な戦闘“支那事変”へと拡大していった。
この当時の日本は米国から鉄屑や原油を輸入しており、中国大陸進出を図っていた米国にとって、支那事変は都合の良いものではなかった。
日本に対する原油輸出停止と撤退要求
その後も日米両国間で交渉が行われるが、米国は日本への原油輸出を停止する手を打ち、満州を含めた中国大陸全土から日本軍の撤退を要求する『ハル・ノート』を提出。これまでと一変した厳しい内容に日本は開戦を決意することになる。
そして遂に世界最大の火蓋が切って落とされた
一方欧州では、1939年8月にドイツはソビエトと東ヨーロッパの分割支配を密約し、独ソ不可侵条約を締結。直後、ポーランドに侵攻を開始。
これが引き金となり、その戦火は瞬く間に世界中に広がっていた。
≪≪太平洋戦線≫≫
1941年9月6日の御前会議において、アメリカとの交渉が10月上旬までに進展しなければ対米戦を行なうことが決定された。
その後に組閣された東条内閣は、11月5日の御前会議では、開戦日を12月8日とし対米戦準備を本格化させた。
1941年12月8日未明、日本陸軍がイギリス領マレー半島のコタ・バルに上陸、海軍は空母艦載機によるアメリカ領ハワイのオアフ島に対する基地攻撃(真珠湾攻撃)を行い太平洋戦争の幕が開かれた。
12月10日に敵対する中華民国が日本に対して宣戦布告し、12月11日には、日本と同盟を結ぶドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで世界大戦へと拡大して行った。
≪≪北アフリカ戦線≫≫
イタリアではムッソリーニ率いるファシスト党がローマ進軍により権力を得ていた。
当初イタリアは、オーストリア併合などの問題でドイツとは対立関係にあったが、1935年イタリア領ソマリランドに隣接するエチオピア帝国を攻撃し第二次エチオピア戦争を開始したため、国際連盟を脱退し、同じく脱退したドイツと急接近することになった。
1940年5月10日ドイツは電撃戦にてフランスに侵攻し6月10日にはパリが占領されフランスの敗北が決定的となると、英仏両国に対して宣戦布告した。
ムッソリーニはイタリア軍上層部が補給の不安で反対しているのにも関わらず、1940年9月イタリア領リビアからエジプトへの侵攻を指示した。
兵員8万人からなるイタリア第10軍は、イギリス軍が撤退したこともあり、順調に進軍して100km先のシディ・バラニを占領した。
≪≪東部戦線≫≫
1939年8月23日東ヨーロッパにおける独ソの勢力範囲の画定を約束した秘密議定書を含んだ独ソ不可侵条約を結んだ、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンの二人の独裁者は互いの利益の為に邁進していった。
9月1日にまずはドイツ軍がポーランド侵攻を開始して、9月3日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告して第二次大戦の幕が開いた。
9月17日には、東からソ連がポーランドに進行して、ポーランドは秘密議定書に基づいて独ソ両国に分割統治される事となった。
さらにソ連は、バルト三国とフィンランドに対して領土拡大を図る為に11月30日にはフィンランドに進行して領土を割譲させ、1940年6月には40万人以上の大軍にて侵攻しバルト三国を併合した。
一方のドイツ軍も1940年5月にはベネルクス三国を6月にはフランスを占領した。
ルーマニアの石油資源を欲したヒトラーは、1941年6月22日独ソ不可侵条約を破棄して、北はフィンランドから南は黒海に至る線から300万人もの大軍にてソ連に侵攻を開始する。
バルバロッサ作戦が発動された。
≪≪西部戦線≫≫
1943年11月28日米英ソの首脳陣が初めて一堂に会したテヘラン会談において、アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連議長スターリンが協議して1944年春にはヨーロッパに第二戦線を構築する事で合意した。
それを受けて連合軍総司令部は作戦準備に入り、ヨーロッパ方面最高司令官にアイゼンハワー、地上軍総指揮官にモンゴメリーを任命した。
上陸地点は、イギリスの本土基地から連合軍戦闘機の航続距離内と制限され、パ・ド・カレーとノルマンディーに絞り込まれた。
パ・ド・カレーは、イギリス本土からも近く上陸地点としては最適であったが、その分防御が強力であった為にノルマンディーが選ばれる事になった。
一方ドイツ側の状況は、1943年11月には、ヒトラーは連合軍のフランス侵攻を警戒しており、西部方面軍司令官ルントシュテットの他に、フランス北部の防御を担当する司令官としてロンメルが配置されたが、両司令官の防御思想は逆で、ロンメルは敵が上陸する瞬間に攻撃を加えようとしたことに対して、ルントシュテットは、敵を内陸に呼び込んで殲滅することを主張して対立していた。
連合軍は、ノルマンディー上陸を悟られないようにする為に、欺瞞作戦を展開した。
ロンメルは、連合軍は必ずノルマンディーに上陸すると確信して、全力でノルマンディー沿岸の防衛陣地の構築と600万個にも及ぶ地雷の敷設を行なっていた。
1944年6月6日、フランスノルマンディーを舞台とした、史上最大の作戦が開始されようとしていた。