?~1615年。母親が秀頼の乳母であったことから、豊臣方として大坂の陣に参加、五人衆の一人に数えられた。冬の陣後の講和において、臆すことなく家康と堂々とわたりあったことで一躍名を高める。夏の陣では兵4700を率いて出陣、八尾・若江の戦いで藤堂隊に潰滅的な打撃を与えたが、井伊直孝の大部隊に敗れ討死を遂げた。