1537~1592年。貴久の三男。薩摩祁答院に12村、1万8000石を有した。兄義久は秀吉の九州征伐に屈したが、歳久は頑強に抵抗した。戦後も病気と称して秀吉に伺候せず、朝鮮の役も無視した。1592年、島津臣梅北国兼が秀吉に謀叛したが、歳久の家臣が多くいたため秀吉が激怒、義久に誅伐を命じたが、歳久は竜ヶ水で自害した。