?~1566年。備中成羽城主を経て、のち松山城主となる。毛利氏の麾下として活躍し、1561年には尼子氏に属した庄高資を破り、備中の中心勢力へと成長する。1565・66年には美作三星城の後藤氏を攻撃するなど、宇喜多氏勢力下の諸城を次々と攻略していったが、興禅寺に在陣中に、宇喜多直家によって暗殺された。