兵法と築城法を学び、諸国を遍歴した末に武田家に仕えて軍師として活躍したと言われている。第四次川中島の戦いにて、軍を2手に分けて一方が敵を追い立てて一方がそれを迎え撃つという「啄木鳥戦法」を馬場信春と共に考案する。しかし、その作戦は上杉謙信によって看破されてしまう。劣勢の中、奮戦するも討死したとされる。その存在も含めて現在も多くの部分が謎につつまれている人物。