正室は島津忠良の長女阿南。当初は島津氏と友好関係にあったが、1562年、貴久と反目した兼続が廻城を奪うと、貴久はこれを攻囲した。兼続は貴久の弟忠将を討ったが、敗れて退去した。翌年、島津氏と対立しながら、伊東氏と連携して志布志を得た。1569年、高山城落城の報を聞き、浜浦で自刃したと伝えられる。