信長につけられた4家老のうちの次席家老で、主に財政面を統括した。1543年、織田信秀の名代として上洛した。1548年頃、信長と斎藤道三の娘の婚儀成立に奔走した。また、清洲の織田広信・坂井大膳らとの和議の時も活躍したといわれる。1553年閏1月13日、後事を僧侶沢彦に託し、諫死したといわれる。