甲斐宗運

阿蘇家家臣。常に冷静沈着で、裏切り者は血縁であっても斬り捨てるほど非情な一面もあるが、決して融通が効かなかったり気難しいという人間ではない。相良義陽とは仕える家が違うが親友同士の間柄。

デザイナー:古川れもん
CV:柚木サチ
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史実紹介

甲斐 親直(かい ちかなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。阿蘇氏の家臣。一般的には出家後に名乗った『宗運』の号で知られる。
1541年、島津氏に内通し阿蘇氏に反旗を翻した御船城主・御船房行を討伐し、その功によって御船城を与えられ、城主を務める。1565年、阿蘇氏からの離反を画策した同族(娘婿)の甲斐守昌の居城・隈庄城を攻撃し、守昌を追放した。また、1562年に出家し宗運と号す。
宗運は北は大友氏、南は相良氏と同盟を結ぶことで阿蘇氏の独立を保った。しかし、大友氏が1578年に島津氏に敗れ、肥後への影響力が低下すると、肥後の国人衆の多くは島津氏や龍造寺氏についたが、宗運は大友氏との同盟を維持した。1580年3月、龍造寺氏に従属した隈部親永、合志親為、河尻氏、鹿子木氏と、島津氏に従属した名和顕孝、城親賢による肥後国人衆の連合軍が阿蘇氏打倒の兵を挙げた。宗運はこれを兵8000を率いて迎え撃ち、白川亘過瀬を挟んで対陣。間者の報告によって、降雨により油断した隈部勢が酒盛りをしていた事を知ると、翌日未明に川を渡河して急襲。隈部勢は大混乱に陥り、敗走させられている。