荊州群雄2

男達は、懸命に駆けていた。
野の獣ならいざしらず、彼らは深夜の森を走り回れるようにはできていない。
木の根が男達の足をはらい、枝が肌に切り傷をつくる。
もんどりうちながらも体を前に進め、ようやく彼らは足を止めた。
賊 A
賊 A

どうやら逃げ切れたようだな

賊 B
賊 B

ああ

彼らは周囲を見渡す。生き残ったものはわずか数名。
数十人を数えた手勢が、半時もせぬうちにこの数である。
賊 C
賊 C

……まさかあの噂が真実とはな

賊の脳裏に、神弓という単語がひらめいた。
その弓箭、万里を越え、あまさず的を射抜く。
それは荊州につたわる一種の伝説と思われていた。
賊 B
賊 B

いくら稼げても、命を失うのでは割に合わん

荊州は戦を逃れたものたちが大量に入り込み、それなりに発展している。
それだけに、賊どもにとっては美味しい。
荊州に富が集まるにつれて、賊たちもその匂いに惹かれて北から南から集まってきていた。
この時代の賊というのはただ窃盗をする集団というわけではない。
賊とはつまり反乱分子なのだ。
中央の勢力が弱まったことをいいことに、
狭い地域を暴力で支配して好き勝手やるものもいれば、
租税を拒んだ地域がまとめて賊扱いされることもある。
いずれにせよ彼らが発生する根本の原因は、社会そのものの混乱にあるといえる。
賊 A
賊 A

くそっ、あの女め……

その言語の続きは無かった。
賊どもは、一斉にあの女といった男を見た。
男の額には矢尻が突き出ていた。
男は、まるでただの棒のようにその場に転がった。
賊たちは、ものもいわず、再び駈け出した。
賊 B
賊 B

ど、どこから撃っているのだ!?

賊 C
賊 C

月明かりもないのに、なぜ当たるのだっ!!

目に見えぬ死神。それに追われる気分であった。
すこしばかり前、彼らは集落に奇襲をかけようとしていた。
一つの村を潰すのには十分すぎるほどの勢力であった。
劉表が賊を討伐するために兵を集めているという噂は耳にしている。
だが、それがなんだというのだ。
荊州の日和見と、ことなかれ主義。
それは盗賊たちにすればありがたいが、民にとってはたまったものではない。
荊州が賊相手にやられる一方なのは、彼らの収穫が物語るとおりだ。
いかに劉表が兵力を集めたところで、返り討ちにすればいいだけのことである。
ともあれ大規模に軍を動かしたなら、当然彼らも警戒する。
しかしこの辺り一体に関してはそういう話はついぞ聞かない。
つまりこの集落は間に合わなかったということになる。
もしくは見捨てられたか。
男達はほくそ笑んだ。最初にやられたのは、男達の首領であった。
眉間に一発。音もなく訪れた、死という現実。
首領が先にやられたのは、手に松明を持っていたからだった。
続いて倒れたのが同じく松明を手にしていた男だったことが、それを証明している。
明かりを奪われるまで、わずか数瞬だった。
賊たちは、再び暗闇の逃走劇を続けていた。
一瞬でも体を崩せば、それで終わり。
脳を撃ちぬく一撃は、まるで弓箭そのものが意志をもつかのごとく正確無比である。
賊 B
賊 B

はあ、はあ、はあ、だから俺は劉表のところに手を出すのは反対だったんだぁっ!!

この男が本当に反対していたかは定かではない。
長年賊と呼ばれていると、言葉に責任を取るなどという無駄をしなくなるものでる。
賊 C
賊 C

神弓とかいう女、俺が虜にしてやるとかいってたのはどこのどいつだ!!

賊 B
賊 B

……あんな与太話、信じている方がどうかしてるだろうがーっ!!

男達にとって偽らざる感想である。
彼らは自分たちがどうしてこんな目にあっているのか全く理解できなかった。
本来なら夜の森を逃げ走っているのはあの村のものたちではないか。
賊 C
賊 C

なんで俺達がこんな目に合うんだ!!

言葉の途中で、男は駆けていた勢いのまま、男は円弧を描いて倒れこんだ。
後頭部から眉間に綺麗に矢が貫通している。
とうとう一人だけになった賊は、己の体力の限界を感じながら、
それでも言い知れぬ恐怖から逃れようと、走り続けている。
そんな彼の耳に、せせらぎの音が聞こえた。
賊は、藁をも縋る気持ちで、耳をそばだてた。見れば、目の前の暗闇が開けている。
あと数十歩で、森を抜けるのだ。
河に飛び込めば、いくら弓の名手といえど手出しはできまい。
男は自分に訪れた幸運を喜んだ。心臓が張り裂けそうである。
全身の切り傷や打撲はもはや深手といってもいい。
だが一縷の希望だけが、賊を生かしていた。
賊は己が子供や女を追って殺すのを趣味としていたことを思い出した。
追われているときの奴らは、このような気持ちだったのか。
追われる側になってみて、初めてわかることがある。
そんなことは知りたくもなかった。男は屈辱を感じた。
自分が追われる側の弱いものになったことなど、男には認められない。
あと少しで、川だ。
賊 B
賊 B

女あ!! 次にあったときは、容赦しねえぞ!!

顔を見たこともないどころか、気配すら感じたことのない女に向けて、賊は叫んだ。
それはある意味勝利の雄叫びでもあった。
???
???

馬鹿ね

森を、抜ける。その瞬間。賊の頭部を矢が貫いた。
賊 B
賊 B

ひあっ

望みどおり、男は河にたどり着いた。
そしてまさに絶命の寸前、男の亡骸は川面に沈んだ。
周囲には静寂が降りた。森の奥、男達が亡骸を晒した地点から遥か遠く。
樹上であった。
不安定な枝の上に、まるで宿り木のようにすっくと立つ人影。
近寄ってみれば、まるで森林の精霊がごとき風貌の女人。
艶やかな外見は月の女神にも見える。
もっとも今は新月。周囲を被うは墨のような暗黒である。
だが、神仙境のような光景は、女人の手にした巨大な弩と、
鷹の如き視線によって裏切られる。
黄 忠
黄 忠

次なんて無いのよ

新月の射手は、嫣然と頬笑んだ。