張飛は、隣にたった老武人の腕をじっと見ている。
そして、幹の如き太さの腕に触れた。
張 飛
まるで熊のようだな
厳顔の腕一本の目方は、張飛の目方に匹敵しそうである。
厳 顔
熊とまではいかぬよ。まあ猪くらいはあるがな
厳顔は自然と孫娘に対してのような口調となっている。だが張飛は友軍の将であった。
その実力の程も厳顔は間近に見ていた。驚いてもうろたえぬのがこの老将であるらしい。
張飛はまだ厳顔の腕にさわっている。
張 飛
うちのひょろひょろにも、分けてやりたいくらいだな
銀 河
それはまさか俺のことか?
厳 顔
たしかに銀河殿は、もう少し足腰を鍛えるべきだ
銀 河
俺の足腰は十分強い。それに鍛え過ぎて筋肉達磨になってしまったら、逆に女は気味悪がるだろう。色男としては、もてなくなるのは困る
厳 顔
そのような細身では、体で刃を止めらぬ。矢の一本や二本、体で止められぬようでは武人の名折れぞ
そんな筋肉の持ち主はこの場には厳顔だけだ。銀河は辟易する。
老いてなお盛んというが、この老人は筋肉だけは衰えぬままらしい。
関 羽
私も見習いたいものだ
銀 河
……関羽、おねがいだからそれだけはやめてくれ
張 飛
姉上は牛だ
張飛は、なぜか得意げであった。
銀 河
牛か……
銀河は、関羽の胸のあたりを見た。
関 羽
不埒な想像をしているようだな、銀河殿
法 正
うるさい連中だ
劉備は、卓の上に広げられた地図上で、先ほど益州軍が落とした城を確認した。
劉備はそこに自軍の所在をしめす素焼きの象を置く。
一方で法正は地図上か、あるいは劉備に向けてか、いずれにせよ冷たい視線を投げかけた。
劉 備
しかし、あっけないもんだぜ。この調子だったら、すぐに益州内の賊を一掃できちまいそうだな
実際、歯ごたえのない敵ではあった。あっけなく城は落ち、敵は逃げ去った。これには劉備も拍子抜けである。
劉璋らしく、国内の乱を過大評価していたのだろうか。その可能性は否定出来ない。
ともかく幾度と無く死線を越えた河北での一戦に比べれば、今回は全く温い戦であった。
劉 備
……このまま俺らが活躍すれば、賊の連中も戦う前から降参してくれるんじゃないかね
関 羽
そう安々と事が運ぶでしょうか
武神はいつになく気ぜわしい様子である。
関羽の直感は、反乱続く州内にさらなる火の手があがることを懸念していた。
法 正
劉備殿にとってすれば、このような戦など、まるで容易いことでしょうな
法正は、さも面白くなさそうに言葉を発した。
関羽は、容易いこと、の一言で戦を片付ける法正の物言いに、軽い怒りを覚える。
戦は算術のように割り切れるものではない。関羽はそう思う。
武辺者がいうなら井の中の蛙と笑える話だが、
自らも学問に通じる関羽がいうのだから、その言葉には重みがあった。
無論戦には様々な算術が不可欠である。算術の破綻はつまり戦の破綻だ。
だが戦には、算術では計れぬ要素も確かに存在する。
劉 備
まあ俺達が強いのもあるが、賊共だってそれほど熱心に戦ってるわけでもない
法 正
ですが、そういう手合いばかりとはいいきれませぬ
ぼさぼさ頭の書生が告げるのは、いつでも現実である。
劉璋がこの男を疎んじながらも飼い続けているのは、その厳しいまでの現実主義、功利主義にあるのだろう。
法 正
我らの敵はいわば雑魚。寛大なる我が君主を見くびる馬鹿者どもです。実際多くの者は劉備殿の相手にはなりますまい。しかし数多くの木っ端の中にも、手を焼く大物がおりますれば
劉 備
……まぁ、そんな面倒な話があるとはおもってたぜ…
策士は、地図上の一点を指さした。益州北方の地、漢中である。
周辺を山に覆われた益州。その北方にあり、さらに峻険たる山々に囲まれた要害の地。
法 正
まず北には、張魯公祺率いる五斗米道がおります
劉 備
宗教か…
苦虫を噛み潰したような顔になる。宗教を相手にする困難さを、劉備は嫌というほど思い知っていた。
それはむき出しの民の意志を相手にするということでもある。宗教を軸に戦う者たちを狂信者と言うのは容易い。
だが、人は悲しいほどに見たいものしか見えず、信じたいものしか信じないものだ。
どんなに優れた教えでも、それが民の願望を体現したものでなければ、広く信じられることはない。
つまり劉備が戦うのは、民の心情であった。
法 正
五斗米道は、益州に元から住む民はおろか、難民や敗残兵なども集め、巨大な勢力を作っております
劉 備
なるほど。ところで五斗米道ってのは、一体どういう教えなんだ……?
法 正
……ほう。知ってもどうしようもないものを知ろうというのか
やはり劉備には測りがたいところがある。そこが法正には非情にいらいらさせられるが、楽しくもある。
劉璋の場合は、法正が事細かに説明しようとしても、逆に聞く耳をもたなかった。
劉璋が求めるのは結果だったのである。
法 正
五斗米道の者共は、実りと収穫を天の恵みとして崇拝しております。それ故に彼らは、身分の上下無く皆で米を作っているとのこと
銀 河
米?
法 正
米作りそのものが、彼らに取っては祈りであり天に感謝を捧げる儀式なのだとかなのだとか。実益のある宗教というわけですな
太平道に比べればずいぶんと牧歌的な宗教である。
張 飛
作った米はどうするんだ?
法 正
建前上はそれらを平等に分け、食しているとのこと
銀 河
なるほど、いい奴らじゃないか
銀河は、思った通りを口にした。法正は眉根をわずかに寄せる。物憂げな表情であった。
銀 河
おや……?
銀河は法正が気に入らないのと同じくらいに、この戦そのものがおかしいと感じていた。
だが妙なことに、先ほどちらりとこちらを見た法正の視線は咎めるようなものではない。
周囲を陰気な気分にするこの策士は、意外なことを口にした。
法 正
恐らく彼らの教えは、間違ってはおらぬのでしょう
銀 河
あんたがそういうとは意外だな、法正殿
法 正
しかし、彼らの教えがいくら正しかろうと、主君に刃向かうものは、討たねばなりません
銀河は少しだけ法正を見直した。
この計算機械のような男は敵に対して偏見をもつ人間ではないらしい。
銀 河
こっちが天に背いているんじゃなければ、それでもいいんじゃないか?
法 正
まるで彼らのような言い草ですな
銀 河
あんたは五斗米道の連中について詳しいんだな
法 正
敵を知り、味方を知れば百戦危うからず。私が彼らについて詳しいのは、策を練るものとして当然のこと
謀に生きるものは、自らの矜持を話した。それにしてもおかしな話である。
法正は上司である劉備、劉璋以外の人間とこれほど長く会話したことはない。
銀 河
ふうん、この野郎は冷血だが、それなりの道理の元に生きてるらしいな
劉 備
ふうむ。たしかに劉璋殿からしてみれば、不安を掻き立てられてもおかしくはない
法 正
劉備殿、いかにしましょう?
どことなく、気の引けるような口調であった。
いくら平和に米を作っているだけの連中とはいえ、年貢の供出を拒み、不逞の輩を募とあれば、
州を預かるものとしては黙っているわけにもいかない。
しかしながら、五斗米道は益州の民の心情を色濃く反映したものでもある。
それを排除したとなれば、ただでさえ乱を頻発させている劉璋の評判はさらに下がるだろう。
劉備はいわば汚れ役であった。法正は汚い仕事を劉備に押し付けようとしている。
劉 備
俺は民に嫌われても構わんよ。今でさえ、頼りにされてるとはいえねえからな
劉備の言葉は、後ろめたい法正の気持ちを察しているようにも聞こえる。気遣いの達人らしい配慮であった。
だが銀河には、操縦されているのは劉備の方のように思える。関羽の目にも険しいものが宿っていた。
こうして情宜をからめて誘導されるのに劉備はしごく弱い。
銀 河
やはり油断ならねえな
厳顔が正の監視役なら、法正はもちろん負の意味での監視役といえるだろう。
いや、監視にとどまらず、法正は劉備軍の切り崩し工作を進めているのかもしれない。
だが、欲にまみれた手合いが相手ならいざしらず、法正が相手にするのは劉備なのだ。
銀 河
劉璋のようなわけにはいかんぞ
銀河は拳に力を込めた。
劉 備
んで、問題ってのは北だけかい?
法 正
いえ。もう一つ懸念がございます
張 飛
しばらく離れていたうちに、問題が山積みか
劉 備
そいつはどういう難問なんだ?
法正は、今度は地図の南方指し示す。
法 正
今一つは、南蛮どもの襲撃です。彼らは大規模な部族の連合をつくりあげ、益州南方に進撃を初めているとか
張 飛
なんばん…?
法 正
漢の西の地に住む民族です。彼らは森林を住みかとしており、象と呼ばれる屋敷程の大きさの獣を従えております。これまでも幾度と無く益州を荒らしている難敵でございますよ
劉 備
面白そうな相手だが……そんなにでかい獣をけしかけてくる相手とあっちゃ、なんとも骨が折れそうだぜ
面白そうと劉備はいうが、周囲は笑っていない。とくに老将は怖い顔をしている。
厳 顔
象の突進には、逃げるより他に対抗手段がありませぬ
劉 備
象と戦ったことがあるのかい
厳 顔
戦った、というほどではありませぬ
劉 備
勝ったのか
厳 顔
牙にて腹を突かれ、吹き飛ばされました。象めの気が変わったらしく、その場を去ってくれましたので、なんとかこうして永らえております
冗談とは聞こえなかった。もちろん誇張している風でもない。厳顔は服をはだけ、腹を見せた。
大きな傷跡がある。銀河は息を飲んだ。
厳 顔
その時の怪我の跡でございます
槍で突かれたあとのような傷跡だが、ずっと大きい。
まるで衝車の一撃を食らったようだ。
劉 備
これ、せいぜい角だろ。角にしてもでかいぜ。これが牙かよ
張 飛
ものすごい獣だな
張飛は針妙そうな顔をする。劉備はそんな様子が可笑しくなった。
普段は武将として扱ってはいるが、劉備に取っては張飛もかわいい娘なのであった。
劉 備
張飛よ、まさか象を食べるつもりか
張 飛
べ、別に食べたいなんて言ってないだろ!!
顔を赤らめて、武人は反論した。劉備はそんな張飛の頭を撫でた。
微笑ましき光景に、しばし場が和む。ただ一人、法正はその雰囲気とは無縁であった。
法 正
……こやつらならば、象を食ってもおかしくはない
轡を並べて分かることもある。劉備軍は常識はずれに強い。
法 正
問題はその力をいかに使うか、だな
策士は一人、めまぐるしく脳を動かした。ここ最近脳は休む間を知らない。
策謀に生きることを喜びとするものにとって、それは至福であった。