1941年9月初旬、バルト諸国から攻撃に出たドイツ北部軍集団は、シリッセリブルグ、ムガの鉄道駅を攻略して、レニングラード西部ラドガ湖畔まで到達した。
ドイツ軍と作戦を共にするフィンランド軍はレニングラードに近い、カレリア地峡へ到達していた。これによりレニングラードは北部、東部、南部を包囲される状況になった。
残りはレニングラードの西部にあるラドガ湖畔方面のみで、この湖上から輸送するしか補給路は残されていなかった。これによりレニングラードの市民の生活は困窮していった。
包囲されたソ連軍と市民は絶えず砲撃を受け続け、11月に入るとラドガ湖畔の輸送基地へ続く鉄道基地が占領されてしまうのであった。迂回路の建設にも着手したが、完成するまでには相当の時間が必要だった。
両軍ともに包囲戦による時間と疲労が蓄積するなか、冬の季節に入り、レニングラードのソ連軍と市民はラドガ湖の氷上輸送に頼る苦しい状況に陥る。
1942年春、暖かい季節になると市民とソ連軍も気力の回復には至ったが、その反面氷上輸送は行えなくなった。さらに深刻化する状況を打破するためには、武力による反攻作戦を行う必要があった。
1942年8月にソ連軍はレニングラード方面軍とヴォルコフ方面軍により、シリッセリブルグ゙へ東西から攻撃を試みたが、失敗に終わってしまう。さらに、この時期のソ連軍は他の戦線でも苦戦しており、ドイツが「北極光作戦」を計画し兵力増強を行っていたために、レニングラード解放は実現できないでいた。
結果的に「北極光作戦」は実行されなかったが、1942年の冬を迎えてもレニングラードの市民は依然危機的な状況に陥っていた。
しかし、1943年1月に開始されたソ連軍の新たな攻勢が成功し、レニングラード地方のソ連軍も盛り返してきた。これはスターリングラードを攻めていたドイツ軍主力部隊が苦戦しており、ドイツ軍の戦力が割かれたためであった。
同月11日になると大幅に増強されたソ連軍のレニングラード方面軍とヴォルコフ方面軍によりラドガ湖畔に補給路を通すことに成功し、シリッセリブルグ゙の奪還にも成功した。
その後、ソ連軍はラドガ湖南岸に鉄道を通し、物資面の悩みは解消されつつあった。が、1943年中にはレニングラードの解放にはいたらなかった。
レニングラードが解放されたのは1944年1月中旬に行われたレニングラード方面軍、ヴォルコフ方面軍、第2バルト軍の3方面軍による、ドイツ北部方面軍に対して大攻勢を行った際であった。この時点までにレニングラードでは100万人の死者が出たといわれている。
このレニングラードを守りきった市民の不屈の精神は、対独戦を戦うソ連国民に大きな勇気を与えた。
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