1942年8月に実施されたニューギニアにあるポートモレスビーを陸路から攻略にむかった作戦で別名レ号作戦。
開戦から約三ヵ月後の1942年3月ニューギニアのラエに日本軍が上陸した。さらに南方方面の重要拠点ラバウルも日本軍が占領していた。また、5月にはポートモレスビー攻略に向け、陸海軍が協力し、後に激戦となるガダルカナル島の近くツラギ島も占領した。しかし、その後の海上航路での作戦中に発生した珊瑚海海戦で失敗し海上航路での攻略は難しくなった。さらに6月のミッドウェー海戦での大敗北で海軍の協力は望めなくなった。しかし、ミッドウェーでの敗北により、逆にラバウルへの攻撃圏にあるポートモレスビー攻略の重要性はさらに高まった。
陸軍はニューギニアのギルワに上陸後オーエンスタンレー山脈を越え、ポートモレスビーを攻撃する作戦を立案し、研究を行っていた。不慣れなジャングル戦のため不安があったが、陸軍参謀辻中佐の「もはや作戦は研究の域あらず、実行あるのみ」の一言により作戦は決行となった。作戦決行の1942年8月、まず先遣隊が上陸後目的地へ侵攻中に豪軍と戦闘になり、被害を受けた。その後日本軍の増援がブナに到着。同じようにポートモレスビーへと向かった。途中豪軍の物資炎上作戦により、補給面で苦しめられ、さらにポートモレスビーは山脈地帯にあったために体力的にも苦しめられた。結果、日本軍は山脈を越えることは叶わず、今一歩のところで引き返すことになるのであった。また、この時期から連合軍による「カートホイール作戦」が始まり、ガダルカナル島が占領された。さらにニューギニアの海岸沿いにある日本軍の拠点は、連合軍によって飛び飛びに上陸されたために、部隊の移動が間に合わず拠点ごとに敗北していった。この時ラバウルは占領目的のなかに入っていなかったが、次々と南方の拠点が占領されて孤立していき、その後の連合軍によるラバウル空襲で、日本軍が誇るラバウル基地は完全に機能を失うのであった。
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