1941年6月22日から始まった、ドイツ軍のソ連国境侵攻作戦。
1939年9月ソ連とドイツが独ソ不可侵条約を結んだ直後、ポーランドへ侵攻を開始。東西からの侵攻にポーランドは敗れ、ソ連とドイツは友好条約を結んだ。この侵攻を受けたポーランドの同盟国であるイギリスとフランスは、ドイツに対して宣戦布告をおこなった。
しかし、フランスはドイツによる電撃作戦で敗北。ソ連軍は11月からフィンランドに対し武力侵攻するも失敗し、戦力を消耗してしまうのであった。イギリスとソ連の二面作戦をドイツの軍部は嫌ったが、ヒトラーは腐った納屋は一蹴りでもろく崩れるの一声で、ソ連との不戦条約を破棄。北方集団、中央集団、南方集団へ部隊を分けて一斉に攻勢を開始した。
ソ連はポーランドをドイツと分けたため、国境線に対する戦力配備や、要塞の建設が間に合っておらず、瞬く間に各地で押しやられていった。ドイツ軍の電撃作戦が功を奏している中、ヒトラーはモスクワへ向け攻めていた中央集団から南方方面へ部隊を分けるよう指示。その結果、南方方面に対して一時的に優勢を保ったが、再度モスクワ攻略に向かった秋には長雨で地面がぬかるみ侵攻がはかどらず、冬季に入ると冬季装備のないドイツ軍は極東方面から輸送されてきた予備兵力が加わったソ連軍に一方的な攻撃を受けることになるのであった。
結局モスクワは攻略できず、北方のレニングラードも当初数時間で落とすと豪語していたドイツ軍の予想を裏切り、攻めあぐねる結果となった。モスクワ攻略に失敗したドイツ軍は補給物資の確保が急務となった為に油田地帯がある南方方面に力を入れていくことになる。
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