1945年4月から始まるソ連対ドイツの首都ベルリンを舞台にした市街地戦。この戦いの敗北により、ヒトラーの第三帝国は崩壊した。
1944年6月22日に開始されたソ連軍の大反攻作戦「バグラチオン作戦」と、1944年12月のアルデンヌ攻勢での敗北により精鋭部隊を失ったドイツ軍は、戦線を維持することができなくなり、支配地域は縮小していった。
ドイツ崩壊の最初の発端は1945年1月、ソ連軍が「総統大本営」いわゆる「狼の巣」がある東プロセインに侵入した時から始まっていた。この時、ヒトラーはベルリン侵攻の警鐘を鳴らすグデーリアンの言葉をきかず、1945年3月ベルリン守備戦力を資源確保目的で他地域に引き抜き「春の目覚め作戦」を断行したものの失敗した。その後も各地でドイツ精鋭部隊の敗北が続き、ベルリンは定員割れした錬度の低い部隊と市民で守るしかない状態に陥った。
1945年4月1日、大祖国戦の勝機が見えたスターリンは、ベラルーシ地方のジューコフ元帥※と南部地方のコーネフ元帥のどちらが先にベルリンに達する栄誉を得るか、競わせることにした。位置的にはジューコフだったが、わざわざ一度ジューコフ隊を後退させる余裕を見せた。両指揮官はベルリンの南北に分かれ、それぞれ侵攻を開始するのであった。そして4月20日には両軍で包囲したベルリンに南北から突入を開始した。
ドイツ国民兵や義勇兵は各地で抵抗をしたが、ヒトラーがいる国会議事堂へと向かうソ連軍の勢いは、留まることを知らなかった。ヒトラーはベルリン付近で連合軍と対峙しているヴェング将軍の救援が頼りだった。ヴェング部隊はベルリンの隣町まで約30kmの地点まで進軍したが、消耗した戦力では限界があり、立ちはだかる連合軍の壁を突破することはできなかった。そしてついに司令部がある国会議事堂までソ連軍の足音が迫ると、ヒトラーは地下で服毒自殺をするのであった。ここにドイツ第三帝国は崩壊を迎えたのである。その後、全権を引き継いだヨードルを各連合司令官の元に連れて行き、無条件降伏を行わせた。ヨードルが交渉の際に市民の安全を訴えたがことごとく却下され、ベルリンの市民は占領したソ連兵による被害に遭うことになる。その後ドイツは西ドイツと東ドイツに分断され、米英ソにより委任統治されるのであった。
※ジューコフ元帥は日本戦にも登場しており、ノモンハン事件で大量の部隊を送り込み日本軍を包囲して苦しめた。
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