ハリコフ地方の油田地帯を巡るドイツとソ連の戦い。
1942年下旬、ハリコフの東方にあるスターリングラードでドイツ軍がソ連軍の包囲を受けていた。ドン方面の司令官についたマンシュタインは救援に向かうも失敗し、逆に包囲される恐れがあったため撤退するのだった。
その後、1943年2月スターリングラードのドイツ軍が降伏する。勢いに乗ったソ連軍は「星作戦」でスターリングラード方面から前線を一気に押し上げる攻勢に出た。これによりドイツは押し出され、スターリングラードより南方を攻めていた部隊もドイツ領側に撤退した。
ここでマンシュタインはソ連軍の裏をかくために、かの有名な「バックハンドブロー(後手の一手)」戦術を開始。ハリコフより北方を攻めているドイツB集団によってハリコフより北の戦線が攻め込まれないように防御を行い、ハリコフより南を守るマンシュタインたちドン集団はハリコフより南方を防御しながら戦線を維持していた。結果、1943年2月末にはドイツの防御線の間を攻めてきたソ連軍が、上下をドイツ軍に挟まれた状態で突出した戦線を形成することになるのであった。
マンシュタインは3月初旬に、この突出部の付け根を上下から攻め、更に突出部正面からも攻撃を開始した。後方からの攻撃を受け前線のソ連軍は潰走を始める。
結果、ドイツ軍は突出部の領地を取り戻すことに成功するのであった。(世に言うクルスク戦の始まり)ドイツ軍は更に奥地へ侵攻しようとしたが、季節が雪解けの季節に入ったことにより、地面が泥濘に変化してぬかるんでおり、これ以上進軍できない状態に陥った。この季節に入ると両軍共に進軍に支障が出るため、いったん進軍を停止。お互い戦力を増強して、後の作戦に備えることになるのであった。
その後1943年春過ぎまで、ドイツは開発していた新型戦車パンターや、新型自走砲フェルディナント(※)の配備が揃うまで再三攻勢を遅らせ、予定より遅い7月に一大攻勢にでることになる。この時にはソ連軍も兵力を増強しており、戦線のいたるところで激戦が繰り広げられることになったのである。
※新型パンターとフェルディナント 新型戦車パンターはV号戦車として開発された戦車でVI号戦車ティーガーより後発の戦車である。装甲は傾斜装甲を採用したが、開発目標より重装甲になり、重量が増加した。それでも当時の戦車の中では高速だった。その後改善を行った結果、コスト面と性能面で勝っていたため、生産はパンターに切り替えられていった。しかし生産量は十分とはいえなかった。
※フェルディナント自走砲 開発したポルシェ博士の名前にちなんで「フェルディナント」と名づけられた。実戦ではティーガー戦車と同じ8.8cmの主砲と200mmもの分厚い正面装甲を活かし、次々と敵を撃破していった。この自走砲には機銃がついていなかっため、肉薄された攻撃に弱いのではという印象があったが、実際にはそれほどではなった。戦場でリタイアする主な理由は、地雷や重量からくる履帯の消耗、電気式の駆動装置が故障することの方が多かった。その後、機銃搭載の改良が行われている。
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