1944年6月にマリアナ諸島で繰り広げられた日本対米国による海戦。
1944年5月、太平洋戦争も開戦から2年目に差し掛かると、ニューギニア方面の日本軍は米空母部隊による重要拠点への空襲により、各地で深刻な被害を受けていた。日本軍が誇るラバウル航空隊がある要衝ラバウルも、2月に日本海軍の中継拠点トラック島島が空襲され放棄されたことにより、その後の作戦規模に対し大きな支障がでていた。
その後、日本海軍はフィリピン方面に本拠地を移し、1943年9月に日本軍が定めた米軍が開発しているB-29からの本土防衛と戦闘継続が可能な限界ラインを定めた絶対国防圏内に現れると、空母艦隊による決戦を行う「あ」号作戦の計画を立てていた。それは、決戦海域に機動部隊と基地航空隊を集中して投入し、来襲した米空母部隊および攻略部隊を撃滅するという作戦だった。空母部隊の主力は小沢中将率いる第一機動艦隊で大型空母3隻、中型空母2隻、小型空母4隻、艦載機400機以上というこれまでで最大規模だった。しかし搭乗員の技量は低く発艦もやっとという有様だった。
基地航空隊の主力は角田中将の第一航空艦隊だった。こちらは真珠湾攻撃以来の熟練パイロットが決戦用に温存されていた。しかし3月末に起こった海軍乙事件(※1)後、豊田長官が就任する5月までその後、急遽長官代行となった高須中将が凡庸であったため、決戦用に真珠湾攻撃から温存していた虎の子の航空機約1600機を、約一ヶ月で約350機まで減らし多くの熟練搭乗員も失ってしまっていたのである。
海軍乙事件で計画と日本の実情を知り、現存する艦艇などに「VT信管」と呼ばれる敵機付近で爆発する兵装や新型レーダーの配備を進めていた米軍は、日本艦隊が配備される地域へ多数の潜水艦による警戒網をはるなど、より精度が高い段階で準備することが出来たのである。
そして1944年6月、日本軍は米国が「サイパン」に上陸した報告を受け、基地航空隊や空母部隊で上陸部隊の攻撃に向かった。しかし、向かったマリアナ沖では、既に米軍に探知されており、潜水艦により艦船は攻撃され、対空砲火や迎撃機による攻撃で新米パイロット達は次々と撃墜されていったのである。この光景を見た米軍兵士が「マリアナの七面鳥撃ち」と表現するほど、日本軍は一方的な敗北を喫したのである。その後航空支援がないサイパン島は陥落した。これにより日本本土は、サイパン、グアムなどから出撃するB-29等の大型爆撃機による脅威にさらされることになっていくのである。
※1【海軍乙事件】
海軍乙事件は3月末にパラオに退避していた連合艦隊主力の連合艦隊長官古賀大将と幕僚がパラオからミンダナオ島に飛行艇で移動していた際、事故で長官機が行方不明になった。さらに幕僚が乗っていた飛行艇も不時着しフィリピンゲリラに捕らわれるはめになる。この時積んでいた「新Z号作戦」の作戦書類が米軍に渡ってしった。しかし、この事件の一切は秘匿とされ「乙事件」として処理されたため、米軍が計画を知っているという情報は日本軍全体には知らされないまま決戦日へと向かっていた。
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