1940年にイタリアは自国領リビアからイギリス領エジプトへの侵攻を開始した。
兵数はイタリア軍が圧倒的に有利で、勝利は目前だったにも関らず、目的地手前で補給面の問題から進軍を停止し、休息していた。 その間に立て直したイギリス軍の反撃を受け、戦意が低下していたイタリア軍は敗走。大量に捕虜を出しながら自国領に攻め込まれてしまう。
1941年2月同盟国イタリアの危機にドイツは、ロンメル率いる機甲師団を送り込んだ。北アフリカに到着直後、ドイツ軍は進軍を開始。イギリス軍を大きく押し戻した。 ロンメルは見晴らしの良い拠点と道路がある海岸沿いよりも、砂嵐や蜃気楼にまぎれて侵入できる内陸を迂回して敵の背後を突く戦法をとり「砂漠の狐」と呼ばれ恐れられた。
その後、両軍ともに進軍しては、補給不足により押し返されるシーソーゲームを続けていたが、ドイツ軍の一大反抗作戦によりイギリス軍はエル・アラメインへ撤退した。ここで両軍戦力不足により事態は膠着状態に陥る。
1942年8月ドイツ軍は、戦力を増強したイギリス軍により海岸沿いの拠点を一気に正面突破されそうになる。 ドイツ軍はイギリス軍の前方に地雷原を敷設していたが、突入前の地雷原への野砲攻撃で無効化され、強引に正面突破されてしまう。 その後もドイツ軍は次から次へとやってくる連合軍勢力に撤退を余儀なくされた。 そして1942年末、連合軍によるさらなる大規模上陸作戦が始まり、撤退を重ねたドイツ・イタリア軍は北アフリカの大地から手を引くことになったのである。
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