2002年の日朝平壌宣言を受けて凍結していたミサイル発射実験を、2006年7月に再開し、さらに同年10月に核実験まで強行して、国際的な経済制裁を受けた北朝鮮だったが、その後、中断していた六者協議の進展を望む米国との間で、核施設の無能力化、凍結資金の解除などで合意。
日本が望む拉致問題解決は棚上げになってしまったが、北朝鮮としては脅迫外交が一定の成果を得たわけで、まさにしてやったりだった。
その後、米国との間ではさらに踏み込んだ話し合いが行なわれ、テロ支援国家としての指定も解除されたことで、北朝鮮問題は、一気に雪解けするかに思われた。
そんな風潮もあり、2008年X月、米軍はかねてから予告していた通り、世界規模での米軍再編の一環として、朝鮮半島に駐留していた米軍兵力を、沖縄・グアムなどに分散移転する行動に出た。
当初、韓国政府は、米軍の後ろ盾が無くなることに不安を覚え、撤収を先送りするよう米政府に要請していたが、北朝鮮が核施設の無能力化などで積極姿勢を見せ始めたことや、民族主義の高まりで、米軍には一刻も早く半島から去ってほしいという韓国世論の動向もあって、これを強く後押しする形となった。
だが、事態は思わぬ方向へと転がり始めたのである。
在韓米軍が縮小化され、朝鮮半島のパワーバランスが崩れ始めた矢先、かねてより健康状態が疑問視されていた金正日書記長が急死し、北側に権力のエアポケットが生じてしまったのである。
真っ先に動きを見せたのは軍部だった。これまで、金正日の繰り出す外交戦略に沿って、実際の軍事力行使を控えてきた強硬派軍部が、この権力の空白を好機と捕らえ、長年の願望だった武力による南北統一の実現、すなわち韓国への南進を開始したのだ。
国際社会は、この事態を深く憂慮したが、イラクやアフガンへの派兵で疲弊気味の米国世論は、この動乱に対して極めて消極的な対応しか示さず、米軍も逆に、わずかに残っていた在韓兵力を完全撤収してしまった。
かくして韓国軍は単独で、攻め入る北朝鮮軍と対峙することを強いられることになったのである。