「第2次朝鮮戦争勃発! 日本参戦もやむなし」

■朝鮮半島をめぐる歴史的背景

 第二次世界大戦後の朝鮮半島は、南が米国など自由陣営が支持する大韓民国(以下韓国)、北がソ連や中国など社会主義陣営が支持する朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)という分断国家となってしまった。そして1950年6月25日、北朝鮮軍が突如として韓国に奇襲攻撃を仕掛け、進撃を開始した。世に言う朝鮮戦争の幕開けである。
 それまで米国は、北朝鮮の南進の可能性は極めて低いと評価して、韓国軍には強力な装備を供与してこなかった。在韓米軍もまた小兵力であった。まったく予想していなかった奇襲だったうえに、北朝鮮側はT34戦車を始めとする強力な兵器で武装していた。対する韓国側(国連憲章でいう国連軍ではなく実質は湾岸戦争の多国籍軍に近い)は、ろくな対戦車兵器を持たなかったために、あっという間に北朝鮮の進撃を許し、韓国軍と在韓米軍は南へ、南へと圧迫された。
 だが米国は、進駐軍(当時日本はまだ敗戦後の占領下にあった)を中心とする兵力を国連軍の名で投入(その他、英国・トルコ・オーストラリア・南アフリカなど16ヵ国が参加した)、1950年9月15日には半島中部の仁川に上陸作戦を敢行して形勢は逆転、国連軍は中国国境付近まで進撃した。しかし中国が義勇軍という名目で大軍を送り、実質的に参戦、38度線まで戦線を押し返すこととなった。
 国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーは、中国本土への核爆撃や国民党軍の投入を主張、米国大統領トルーマンと意見が対立して解任され、リッジウェイが後任に就いた。
 結局、1953年7月23日に板門店で休戦が成立、38度線に沿った軍事境界線が設定され、現在も「休戦」状態が続いている。朝鮮戦争は、まだ終戦を迎えていなかったのである。

■中国の軍事介入

 仁川に上陸した米軍が北上した韓国軍ともにソウルを解放、北朝鮮軍主力は包囲されることを恐れ、北に逃れようとするが、米韓両軍の追撃を受けて潰走。このあと米韓両軍は、優勢な戦力をもって、北朝鮮軍を38度線の軍事境界線以北に押し戻した。
 さらに北上を続ける米韓両軍は平壌を目指すが、北朝鮮の崩壊によって西側陣営との緩衝地帯を失うことを、中国政府は危惧せざるを得ない。このため、中国は緒戦から密かに、兵器や物資の供給を通じて援助を行なっていた。
 これらの背景には、大国アメリカによる世界の一局支配に対する中国側の不安・不満がある。まして北朝鮮国境近くまで在韓米軍が駐留することになれば、中国は国境を接してアメリカと直接対峙することにもなってしまう。
 人民解放軍首脳の不安は、共産党中央政府よりも深刻である。このため軍は、独断先行で軍事介入を行ない、中央政府は軍部に引きずられる形で、参戦を追認する形となった。人民解放軍首脳としては、なにかと軍の行動に口を挟んでくる中央政府に対して、より強い発言力を確保しておきたいとの思惑も考えられる。

■日本参戦!

 日本政府は、開戦当初から自衛隊を派遣したが、派遣対象は非戦闘地域に限定され、邦人を含む避難民の輸送活動と、米軍に対する「後方」における補給業務、傷病兵後送やその手当などに制限された。
 だが、地上戦において多くの人的損害が出ることが予想される米国では、「日本参戦」を求める世論が徐々に高まった。また、米国は他国にも参戦を呼びかけ、英軍・オーストラリア軍などが参戦を表明。ASEAN諸国・台湾は、中国の報復を恐れて中立を決定する。
 米政府の強い圧力の結果、日本政府は「難民を安全に救助するために釜山近郊を保持する必要がある」として、またオーストラリア軍などの西側援軍が到着するまでの「つなぎ」として戦闘部隊の派遣に踏み切ることになった。そして時限立法で憲法を一時停止する事態となった。

2つの中国 ついに台湾炎上!

■2つの中国を巡る歴史背景

 第二次大戦中の中国では、蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党が、「国共合作」と称して共同で日本軍と戦ってきたが、日本の降伏後、政権を巡って相討つ内戦状態となった。
 国民党は次第に追い詰められて台湾に脱出し、中華民国(以下台湾)を建設した。当初国民党政府は、台湾を拠点に大陸への反攻作戦を企画していたが、共産党は巧妙な外交政策により、多くの国に共産党政府を中国の正式な政府と認めさせ、国連も共産党政権の中華人民共和国(以下中国)を中国の唯一の政府と認めた。
 国際社会から孤立した台湾は、似たような境遇のイスラエルや南アフリカと関係を深めていった。だが、台湾は次第に民主化を進め、それにともない経済も躍進し、正式な国交こそないものの、多くの国々と交流を深めて、実質的に「2つの中国」状態が続いている。
 中国は「1つの中国」を標榜、台湾の存在を認めず、1954年には金門橋を占領してそこを足がかりに台湾占領を目論んだがこれは失敗した。
 1996年の台湾の総統選挙の祭には、恫喝ともとれる軍事演習を強行し、台湾周辺海域にミサイルを撃ち込むなどの威嚇行為を行なってきた。しかも依然、台湾に対する武力併合を公言しており、状況いかんでは、中台戦争が発生する可能性が極めて高かった。

■台湾本島への上陸

 台湾海軍の艦隊に重大な損害を与えた人民解放軍は、台南や高雄を中心に続々と上陸作戦を開始。台湾空軍による対艦攻撃でかなりの艦船を沈められたが、それを見越した過剰ともいえる輸送船団の動員で、上陸を敢行した。空港・飛行場を確保した後は、中華航空・キャセイパシフィックなどの航空会社の旅客機・輸送機を大量動員して、兵員や物資の補給を行ない、一路台湾の首都台北を目指した。
 ここに及んで、米国政府は重い腰をあげ、台湾防衛に乗り出すことを決定した。
 まず空母戦闘団を派遣、制空権・制海権を完全に確保した段階で、台湾北部に地上戦力を揚陸する予定だった。しかし、中国は、横須賀や佐世保に停泊中の米艦艇に対して特殊部隊を派遣して、艦底に爆薬を仕掛けたり、近距離から対戦車ミサイルを打ち込むなどの攻撃を仕掛け、空母を中心に損害を与えることに成功した。
 とくに空母は搭載機の格納庫で爆発が起こり、修理に時間がかかることが判明、このため米海軍は急遽、沖縄の海兵隊の揚陸艦から揚陸部隊を降ろし、AV-8ハリアー戦闘攻撃機を中心とする航空機を搭載し、空母の代わりに派遣することを決定した。

■なし崩し的な自衛隊参戦

 台湾は既に世界有数の経済大国となっており、居住している外国人や訪れる観光客も多い。このため日本政府は、中国政府に対して交戦の意志がない旨を伝えたうえで、他国と共同で避難民輸送のための政府専用機や自衛隊の輸送艦を派遣した。が、人民解放軍が新竹に進出し、台北占領が射程に入るに至って、自衛隊部隊や避難民に対する巻き込み型の攻撃も始まった。
 この段階でも、いまだ邦人を含め脱出を完了していない在留外国人は多く、日本政府は彼らの安全を図るために、対空ミサイルなど防御中心の戦闘部隊を派遣することをなし崩し的に決定。避難が終わるまで、人民解放軍の進撃を食い止めることになった。

(※本文はフィクションであり、現実とは無関係です)


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