戦史特集第二回
開戦直後に、日本軍はマレー半島を破竹の勢いで制圧した。
その後、日本軍はマレー半島の北方拠点として、またビルマのラングーンから中国に繋がる中国支援ルートを切断し、一方で諜報活動をする南機関の働きなどにより、ビルマに対する英離反工作をうながすという、政略的な意義を持ったビルマ作戦を本格的に開始した。
1942年3月、日本帝国陸軍第15軍は南部ビルマにある首都ラングーンを占領。その後、ラシオ、マンダレーと占領していき、ビルマ攻略を完了した。このときインド領内に退却するイギリス軍は、フーコン渓谷とチンドウィン川を越えなければならなかったため部隊の多くを失った。
ビルマ制圧後、日本軍部内ではビルマ国境を越えてインドのインパールへ侵入する計画を持っていたが、これを実現するには川幅600mのチンドウィン川を越えた上で2000mを越える山脈と密林、さらには雨季には世界一降水量が多い地域を越えなければならなかった。このことから第15軍内でも反対意見が出ていた。
1943年1月、ビルマを奪われたイギリスはモロッコでカサブランカ会談を開き、その会談によりビルマ戦線にアメリカが参戦することになった。
この頃イギリス軍は空輸によりインドから中国への輸送をしており、さらにインドから北部ビルマ国境とフーコン渓谷を越え、中国に物資を届けるレド公路の建設に乗り出した。
これを阻止せんがために、日本軍は第18師団を送り込んだ。この作戦には日本で唯一菊の紋様を授かり、勇名を馳せた通称「菊兵団」とよばれる九州各地から久留米に召集された郷土部隊が参加することになった。
1943年3月、菊兵団は地元民から死の谷と呼ばれるフーコン渓谷へと進軍した。しかし、そこは想像以上の環境だった。高温多湿で山の密林には毒蛇とヒルが大量に潜んでいた。立ち止まれば被害にあった。
1943年10月、イギリス軍のウィンゲート兵団が進出してきた。これをフーコンで向かえ撃つ菊兵団だったが、急速に近代化されたイギリス軍の装備と物量は圧倒的だった。菊兵団の装備は中国戦用だったため、ビルマの環境にあっておらず、重さ1tを越える野砲と明治時代の装備である三八式小銃で戦闘することになる。
一方、イギリス軍ウィンゲート准将は先の敗戦からビルマ戦を研究していた。装備は筒に弾を落とし、密林を越えて上空へ発射する迫撃砲を中心に、航空機による爆撃支援、物資の空中投下、自動小銃(機関銃)により菊兵団を追い詰め、ついにフーコン渓谷を奪還した。
このウィンゲート兵団の山脈越えとフーコン渓谷占領により、日本軍は中国支援ルート遮断を目的とした作戦が急務となったが、依然インパール作戦には反対意見が多かった。
ビルマにいた牟田口中将が第15軍の新司令官に昇進すると、これまでと意見が一転した。インド独立派の中心人物であるチャンドラ・ボースの参戦と、大勝利が欲しい東条政権の思惑が重なりインパール作戦を強行することになる。
1944年3月、インパール作戦が開始される。本作戦ではチンドウィン川を越えた後、山脈を越える予定だったが、雨季の時期に入り渡河する際に物資の殆どは流されてしまった。それでも日本軍は強行し、当然のごとく物資不足に陥った。
菊兵団も本作戦に参加したが、装備や補給物資も手持ちのものしかなく、連日連夜の地形がかわる程の爆撃や砲撃で反撃もできない。いっぽうの連合軍は、次の日には100%の補給を受けていたのである。
「毎日1200発の爆弾と迫撃砲が降ってくる。目も開けていられない」
「密林が砂漠になるほど、撃ってきても次の日には補給されている」
「相手は自動小銃。手持ちの武器では戦争にならないが、これしかない」
──元兵士の証言。
このような状態では戦争にならず、じりじり南方へ後進するしかなかった。菊兵団以外の各部隊も近い状況にあり、いったん包囲するも補給を受け続ける連合軍の陣形を崩せずに被害が増えるばかりだった。
また、分遣して中国国境付近のミッチーナーにいた歩兵連隊も、アメリカ軍によって強化された中国軍に苦しめられ、遂に包囲される危険性が出てきた。
この危機を切り抜けるには日本軍のいる地区から通称“筑紫峠”を越えなければならかった。最強を誇り、撤退もゆるされなかった菊兵団だったが、戦おうにも太刀打ちできない状況では、せめてなんとか生き残ることしか選択肢がなかった。病や傷の悪化で倒れていく戦友たちを助けることもままならないまま峠を越えていった菊兵団。
1944年6月、結局インパール作戦で中国支援ルート遮断をなしえなかった日本軍は、各地で玉砕や転進を余儀なくされ、作戦は失敗。ビルマの日本軍はその機能を喪失した。この作戦で当時最強を誇った第18師団はその戦力を大幅に失い、牟田口中将の行ったインパール作戦は、無謀な作戦の代表例として語り継がれることになった。