1938年、一連の軍事行動にフィリピンを植民地とし、
中国市場への経済的進出を虎視耽耽と狙っていたアメリカは、
日本への輸出規制を盾に中国からの撤退を要求。
これに対し日本の関東軍を中心とした陸軍と、
血気に逸る若い海軍士官の一部では
「アメリカとの決戦もやむなし」
との声が挙がり始めていた。
しかし、アメリカとの国力の差を感じていた山本五十六中将は
この風潮を批判すると共に日米の開戦に待ったをかけていた。

ところが1940年、米内総理をはじめとした
日米開戦に及び腰の姿勢を見せる政治家・軍部高官宅が
何者かによって襲撃を受ける。
犯人を特定できぬまま米内内閣は崩壊。
この謎の襲撃事件を機に、日本は対ソから対米への路線変更が
決定的なものになったのである。