1941年6月に始まったドイツ軍のソ連侵攻後、停滞した東部戦線の南部方面クルスク近郊における「クルスクの戦い」で発生した大規模な地上戦である。
1939年9月の独ソによるポーランド侵攻によって国境を接することになった両国であったが、ポーランド侵攻前に結んでいた独ソ不可侵条約は世界を驚かせ、さらにソ連指導者のドイツに対する警戒を和らげる働きをしていた。
この頃のソ連ではノモンハンを巡る対日戦がソ連は名将ジューコフの活躍で、勝利が目前に迫っていたが、実際には当時主力となっていたBT快速戦車が装甲が薄く、火炎瓶での炎上が目立つという問題点を抱えていた。
なお、この問題はノモンハン以前のスペイン内戦からあり、ドイツ軍のI号戦車を圧倒しながらも炎上や対戦車砲からの攻撃には耐えられなかった。 ドイツとソ連は異なるアプローチから新たな戦車開発を始めた。
ソ連はより重装甲、かつ高火力戦車の開発に乗り出し、A-20試作戦車から装甲も傾斜装甲を採用して徹甲弾を弾きやすくする工夫を凝らした。
1939年12月にはA-32試作車両が改良中に、T-34として正式採用される。
一方のドイツは新機軸を盛り込んだ走攻守揃った15トン級のIII号戦車の開発を行い、さらに既存の技術で三号戦車を支援する目的で20トン級の四号戦車を開発した。
当時主力として開発されたIII号戦車は、20トン前後の戦車としてはバランスの取れた戦車となったが、15トン級の設計思想から大型の主砲搭載は考慮されておらず、後に7.5cm砲搭載可能な四号戦車に主力の座を譲ることになる。
1941年のバルバロッサ作戦開始時にはT-34、III号戦車、IV号戦車が実践投入された。 無線機による連携が取れたドイツ軍によりT-34が撃破されることもあったが、戦車性能においては30トン級の重装甲かつ傾斜装甲をもつT-34に対し、ドイツ軍は火力不足に陥ることになる。
戦車の無線通信装備で勝るドイツ軍は航空支援と連携して機甲部隊を敵陣深くまで突撃させつつ、敵を側面から包囲する電撃作戦により、対ソ戦序盤ではうまく機能していたが、冬将軍の到来でモスクワ攻略は断念せざる終えなくなった。
その後、ヒトラーは長期戦に於ける資源確保のため北方集団はレニングラードを包囲継続、中央軍集団は前線維持、南方軍集団はカフカ―ス油田地帯の確保と黒海の制海権を握りトルコを引き込むことを狙っていた。
しかし、モスクワ攻略に失敗し、甚大な被害を受けたドイツ軍の参謀本部はソ連の燃料資源がバクー油田にあることを着目し、スターリングラード近郊でヴォルガ河を運行するタンカーを阻止することで補給路を絶ち、短期終結を目論んだが、ヒトラーは油田の占領を指示。さらには南方軍集団をバクー油田の占領を目指すA集団と、ヴォルガ河を目指すB集団に分けるよう指示。 バクー油田は4000m級の山脈を超える必要があるため、困難との意見もあったが、作戦はブラウ作戦として、発動された。
結果、油田占領は補給路が伸び切った状態で進軍は停止。ヴォルガ河を目指したB集団もスターリングラード近郊でソ連軍の抵抗にあい、くぎ付けとなり、さらにソ連軍のウラヌス作戦でスターリングラードのドイツ軍は包囲され降伏。 ソ連軍はA集団を包囲する作戦、星作戦を発動。ハリコフとクルスクを奪還した。
しかし、その後ドイツ軍の名将マンシュタインによってハリコフは再びドイツの手中に落ちる。 こうして、クルスク近郊がドイツ側に突出する形となった。 この頃、東部戦線では春の泥濘期に入っており、独ソ両陣営とも作戦が一旦中止された。
この間、ドイツでは名将グデーリアンが装甲兵総監となり、東部戦線で消耗した装甲部隊の再建にあたっており、1942にVI号戦車ティーガーIが投入され、つづいてクルスクの突出部を叩く「ツィタデレ作戦」に向け、苦戦してきたT-34やKV-1に対する新戦力として、V戦車パンターなど新戦力が投入されることとなった。
ドイツ軍は本作戦に東部戦線の戦力の大半を投入しており、戦車と自走砲だけでも2700両を投入していた。 一方ソ連軍もクルスク一帯に防御陣地を構築。戦車および自走砲を6000両など大規模な戦力投入を行い、一帯を要塞化した。
1943年7月、予定より遅れて開始された「ツィタデレ作戦」で、マンシュタイン率いる第2SS装甲軍団がプロホロフカ占領を目指して進軍中、同地近郊でソ連第5親衛戦車軍と会敵。 大規模な戦車戦が開始された。
ティーガーI含む約300両のドイツ軍に対し、ソ連軍はT-34を中心とした約600両の戦力が投入され、両軍とも航空戦力が投入され、制空権はドイツ側が優勢で進攻。空地の連携攻撃によりソ連軍は劣勢を強いられることとなった。
結果、優勢であったドイツ軍も消耗激しく、さらに連合軍のイタリア上陸で東部戦線の戦力が引き抜かれたことにより、ソ連軍を殲滅することが出来ずに終わった。 ソ連軍は多大な損失を出しながらもクルスクを死守しつつ、ドイツ軍の戦力を消耗させることに成功した。
以降、ドイツ軍は東部戦線に於ける優位性を失い、さらに劣勢を強いられることなった。
この東部戦線で激突したドイツとソ連。ソ連が最終的に地上戦で優勢に立てた一つの要因として、ドイツがIII号戦車は高性能化を目指したが、その後の拡張性が無かった。一方ソ連のT-34はワンランク上の砲が搭載可能で、なおかつ装甲に被弾経始を取り入れたことで、機動性を犠牲にしない重装甲化と高火力化を実現できた。その後のパンターやティーガーに対して火力不足となった後も85mm砲を搭載したT-34-85が投入され、戦術面の向上によっては再び優位に立つことができたのだった。