相良義陽

相良家家臣。陽のように明るく優しい性格をしており、周囲の人間を和ませている。その反面、非情になれずに思いつめてしまう節がある。甲斐宗運とは仕える家が違うが親友同士の間柄。

デザイナー:古川れもん
CV:ももぞの薫
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史実紹介

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥後国の戦国大名。相良氏当主。肥後人吉城主。幼名は万満丸。
1564年2月11日より島津氏の侵攻が開始されるようになる。義陽は菱刈氏と共に対島津氏の最前線である大口城をめぐって何度も戦った。1568年には初栗合戦で島津軍を破るが、1569年の砥上合戦で敗北、大口城が落城し薩摩における領土を失い、菱刈氏も島津へ降伏した。これを切っ掛けに島津氏は、翌年に東郷氏、祁答院氏を降伏させて薩摩統一を果たす。
しかし、1578年に島津氏が大友氏を耳川の戦いで破ると、大友に与する阿蘇氏への攻撃を開始し肥後へ進出、1579年になると相良氏の水俣城へも戦火が及び、島津義久の猛攻の前に水俣城が包囲され、その後も猛攻が繰り返されたため、1581年、義陽は葦北郡を割譲し、息子の相良忠房や相良頼房を人質として差し出すことで降伏した。