悪次郎「池田盛周」

弱き者の味方で実直な武将。

急な増税で苦しむ民の為に一揆を起こした過去がある。弱き者を守る事をいつも心がけており、その為に戦っている。民にとても慕われており、皆からは親しみをこめて「悪次郎」と呼ばれている。

CV:中山真吾 デザイナー:黒田んぼ

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史実紹介

 池田盛周(いけだもりちか)は、出羽庄内地方の朝日山城城主。大宝寺氏・上杉氏・最上氏の家臣で通称は讃岐守。悪次郎と名乗っていたこともある。
 大宝寺武藤氏に仕えていた池田盛国の子として天文年間に生まれ、若くして武将としての頭角を現し、方々の戦に従軍しては戦功を挙げていたという。
 1588年、十五里ヶ原の戦いで最上勢として参加し、大宝寺義勝を擁する越後の上杉家臣本庄繁長と戦った。朝日山城に籠り最後まで抗戦するが落城してしまう。降伏後は、大宝寺義勝に所領を安堵された。しかし、一説によると十五里ヶ原での野戦において池田盛周は討死したともいわれている。文献や伝承・逸話などから盛周は実直かつ正義感が強く、領民には情け深く、弱者救済に一命を賭していたと思われる一面がある。