???

男は夢を見ている。
それが夢であることは明白であるが、嫌なことに夢は覚める気配がない。
夢であることが自明な夢など、ただの苦痛だ。そしてその夢には、夢らしい誇張や願望の反映が無い。
そのためそれは単なる過去の反復だ。だが、もとより男はいかなる願望も抱いたことが無いのである。
その夢が現実の反復以外の何かになるはずもなかった。
男は走っている。往くのは道なき道である。視界は墨を塗りつぶしたように暗い。
なぜ己が逃げているのか、男にはいまいちわからない。
それは己の本能なのかもしれないし、実際何か恐ろしいものから逃げているのかもしれない。
追ってきているのは人の群れである。確かに、男にとって人とは恐怖の対象の一つである。
だが男には、自分が逃げているのが人が怖いからだけとも思えなかった。
いや、逃げているのは人からではなく、人の世界ではないのだろうか。
もっとも、当時の己がそのように思ったはずはない。
「人」とは少しばかり己と似てはいるが、男とは心の有り様がまったく違っている。
それは男を見つけるや、いつも集団で追いかけてくるのだ。実に怖かった。
猪や熊とはまったく違う生き物である。
そうした獣は牙と爪で武装するが、人間は力は弱いものの、多くの武器を使ってくる。
男が特に警戒しているのは、鋭く尖ったものを発射する、三日月のような形をした武装だった。
人はそれを弓と呼んでいる。それが発射する尖った棒が刺さると、ひどく痛い。
そのため男は、それを持っている相手とは無理に戦わないようにした。
やむなく戦いとなったら、弓を持つものは優先的に殺した。幸い人の耐久力は高くない。
例えば熊などに比べると、骨の作りがだいぶ異なっている。
男は何度か人を殺すうちにそのことを学ぶようになった。
殺し方も分かってきた。人を殺すときは顎を狙うと良いらしい。
だが、だいぶそのことに慣れてきたとき、男の体はだいぶ成長をとげており、
人ぐらいの大きさの獣であれば、狙いどころ構わず一撃で絶命させられるようになっていた。
まぶしい光が、男の目を射ぬいた。光は男にとっては忌むべきものである。
男が出たのは、森の中でも比較的開けた場所であった。
そこに、松明を手にした「人」の大群が待ち構えていたのである。
追い込まれた。そのように直感する。それは、男が兎を追い込むときによく使う手でもあった。
兎は骨まで残さず食べられる。
骸が他の動物を引き寄せることが少ないという意味では、兎はとてもよい獲物だ。
男はたまに自分が兎だったらと妄想することがあったが、
このように大人数の罠にかかることまでは想像したことがない。
男はとっさに逃げようとするが、来た方向は尖った棒を手にした「人」数匹に塞がれている。
では正面はと思うが、いつの間にか目の前にも尖った棒を持った「人」が数十匹ほどいる。
董 卓
董 卓

……ほう、大猿とはお前か……?

その「人」は、こちらを見て鳴き声をあげた。
怯えるような鳴き声でも、怒声のような唸り声でもない。
男はそのような鳴き声をあげる生き物を知らない。人はどんな獣とも違う奇怪な鳴き声で鳴く。
男の本能はその鳴き声に「意味」というものの断片を感じ取っていた。
それ以前に男は、この「人」に常の人とは違う危険な匂いを嗅ぎ取っていた。いうなればそれは獣臭。
その「人」は他のどんな人よりも己に近い生き物と見えた。
董 卓
董 卓

……こいつに熊のような怪力があるって? こいつが狩人たちを何人も殺したって……? やれやれ、こうして炙り出してみれば、出てきたのは痩せこけた子供が一匹とはな。はははは

董卓は笑った。男はその笑いをきょとんとした顔のまま聞いている。
男は人の「笑い」というものが嫌いだ。
それに込められた嘲りの感情を、男の心は敏感に感じ取っていたのかもしれない。
だが、なぜかその笑いには不快な気持ちにはならなかった。
その笑いは、尖った棒を持った「人」に向けられたものであり、この世界に向けられた笑いだった。
男も、その笑いにつられて、少しだけ笑った。
そして、目の前の「人」が持っている尖った棒を奪う。
 男 
 男 

ヒャハハハハハ!!

尖った棒の使い方は、よくわかっていた。男はそれに何度か追い立てられている。
その時に学んだのであった。男は尖った棒を思い切り振ってみた。
太い枝を折ったときのような感触がした。そして、目の前にいた「人」の首は飛んだ。
人たちは色めき立って、棒の先端を突きつけるが、
その動きは男にとってはまるで水中にいるように緩慢である。
たちまち反撃し、最初の男のように首を跳ね飛ばす。
 男 
 男 

ヒャハーッ!!

覚えたばかりの「笑い」と共に、男は今やこちらを興味深げに見るその異質なる「人」に突撃した。
だがその一撃は、僅かな動作で躱された。まるで山犬のような素早さである。
だがその「人」は川蝉のように美しい外見をしている。男は一瞬、綺麗だ、と思う。
だがその本性はやはり自分と似ているようであった。
美しい人は、自分も尖った棒を構え、男に笑いかける。
董 卓
董 卓

来い

人は、男を手招いた。その仕草が何を意味するか、男にもすぐにわかる。
俺に食われたいのだ。男は叫んだ。
 男 
 男 

ハアアーッ!!

男は、尖った棒を突き込んだ。その刺突は、しかし美しい人のもつ棒で防がれた。
美しき人のもつ尖った棒は、男のそれとは違い、先端だけではなく棒の両端も鋭くなっている。
その一撃は、男のもつ尖った棒から、よく刺さる先端部分を切り飛ばした。
そして、返す刀で、美しき人は男を袈裟斬りにする。
 男 
 男 

ガアアアッ!!

男はなんとか後方に飛退り、片膝をついて立とうとしたが、
胸の傷は思ったよりも深く、こらえ切れぬほどの痛みがあった。
男は、地に伏したまま、傷口を押さえ続けた。
美しい人はよく切れる棒を、男の顔に突きつける。
董 卓
董 卓

なかなか面白みのある強さではないか。少々獣の臭いが強すぎるが、こういう臭いも嫌いではない……

董卓は男の頭を掴み、軽々と持ち上げた。
男は怯えるでも怒るでもなく、不思議そうな顔で美しい人を見る。
董 卓
董 卓

獣よ。この俺が生きる術をやろう。おまえは、この董卓に仕えよ。そして、最強となるのだ

 男 
 男 

さい……きょう……

美しい人は、男の頭を掴んだまま、空を見上げる。その姿はどこか悲しく、そしてやはり美しい。
董卓の人間らしい姿を見たのは、この時だけではないか。夢を見る男はそのように思う。
なぜかその名前、己につけられたその名前を言う時には、董卓の心はいつも昂ぶる。
それは憎しみにも似た憧れであった。
董 卓
董 卓

貴様は今より、呂布と名乗れ。呂布、字は奉先とな

男は、うっすらと目をあける。己は夢を見ていたようだ。
あの時より、十回以上冬が訪れている。遠い昔の出来事といっていい。
それがなぜそのような夢を見るのだろうか。そしてここは、どこであろうか。
女の子
女の子

……あっ、起きた

見れば、幼い少女が寝床に伏せる己を見つめている。少女は立ち上がり、駆けていく。
 男 
 男 

……??

入れ替わりに入ってきたのは、若い女だった。
???
???

目、覚めたのね、よかった

 男 
 男 

俺は、なぜここにいる

???
???

私が拾ったからよ、ついでに看病もしてあげたの。親切でしょ

 男 
 男 

どうして……

???
???

困ってる人を助けるのは、当然でしょ

 男 
 男 

俺は……

自分は「人」とは違う。呂布は己の手を見た。
董卓と出会った頃より倍の大きさをしている腕。圧倒的な体躯。それは多くの人間を殺してきた。
人外の獣さながらに。
董卓に飼われながら、男は欲というものを知った。
そして、言葉というものを得た。だが男のいる世界は、以前として人の世界ではなかった。
男は、困っている人を助けるのが当然、という娘の言葉の意味が、よくわからない。
???
???

あんた、名前は

 男 
 男 

おれは、りょ……

男は名乗ろうとした。男はその誇らしい名前を名乗るのが好きだった。
その名前を聞くとどんな人間も怯える。そして、男を見る目が変わる。それは気分がいいものだった。
だが、その誇らしい名前が、なぜか出てこない。
???
???

奇遇だな、我が名も呂布という

それは、そのように名乗った。そして、その後に起こったのは…。
 男 
 男 

お……俺は……俺は……

名前が出てこない。その名を言えば、すべてのものが戦慄したはずだ。
だがそれは、己の名ではない。もとより、己ごときが名乗っていい名ではない。
???
???

思い出せないの? ……目が覚めたばかりで混乱してるのね。しばらくはゆっくり休んで

娘は立ち上がり、小屋を出ようとする。
 男 
 男 

お、お前は……?

娘は振り返りざまに、答えた。その顔は微笑んでいる。
それは、男が目にしたことの無い快活な笑みであった。
貂 蝉
貂 蝉

私は、貂蝉